黄檗宗

     隠元

1.概略
 黄檗宗(おうばくしゅう)は、中国・明時代の中国臨済宗の高僧・隠元隆起埼(いんげんりゅうき、大光普照国師)が日本に渡来して開宗した禅宗の一派です。中国の仏僧が開山となったため、本山の建築様式や教典読誦の発音などに中国式が取り入れられています。

2.教祖・重要人物
「隠元」(1592〜1673)
 隠元は1592年、中国の福建省で生まれました。生家は学問を重んずる家柄で、29才で黄檗山万福寺(まんぷくじ)に入り、臨済禅の修行に励みました。62才で師の跡を継ぎ、万福寺の住職として禅風の高揚に尽力していました。

 その頃、日本の長崎で中国出身者のために建立された興福寺をはじめとする三寺院から、隠元の弟子が当地に招聘されることになりました。ところが舟が途中で難破して、弟子は死んでしまいました。そこで長崎からは隠元本人の渡来を求める熱心な要請がなされ、63才の高齢を押して渡海することになったのです。

 当初、訪日期間は3年の約束でしたが、隠元の来日によって中国の新しい禅風を学ぼうとする気運が高まったため、なかなか帰国できませんでした。やがて隠元は、摂津の普門寺に落ち着き、寛文元年(1661)、徳川家綱の許可を得て、京都・宇治に黄檗山万福寺を設立しました。この山号にちなんで「黄檗宗」という日本独自の禅宗の宗派が成立したのです。
 これ以降、上皇や幕府、諸大名の帰依を受け、黄檗周の寺院が全国に建立されました。隠元は82才で生涯を閉じました。
 
3.教典
 「般若心経」「往生浄土神咒」など
 (隠元の著作)
 「黄檗清規」

4.本尊
 釈迦如来

5.教義
「念仏禅」
 念仏と禅宗を組み合わせた教えです。衆生が本来そなえている仏心(自性の弥陀)を、参禅と念仏によって体得することにあります。救済主の阿弥陀仏も仏の浄土も自己を超えたところに存在するのではなく、自分の内にある弥陀(己身の弥陀)を発見し、心の内にある浄土(唯心の浄土)を顕現することが、浄禅一如の信心であると説かれます。

「中国的な建築様式」
 寺院のたたずまい、窓の形態、壁の色彩などに中国的な建築様式が採用されています。

「唐音」
 読経の発音は、隠元の頃の南中国の発音(唐音、とういん)が用いられたいます。たとえば「南無阿弥陀仏」も「なむおみとーふー」と発音されます。

6.歴史
 明治7年(1874)、明治政府教部省が禅宗を臨済・曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治9年(1876)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなりました。
 
7.宗派
 本山は隠元の開いた、京都府宇治市の黄檗山萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。

8.主要寺院
   
9.その他
「鉄眼一切経」
 隠元の法孫に当たる鉄眼道光禅師は艱難辛苦の末に隠元のもたらした大蔵経を底本とした『鉄眼版(黄檗版)一切経 』といわれる大蔵経を開刻・刊行し、これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚禅師は錦袋円という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。

「隠元豆」
 隠元が来日した際に日本に持ち込んだため、その名が付いたとされる「インゲンマメ」は、中南米原産のマメ科の作物。ヨーロッパに伝わった後、ユーラシア大陸を横断して中国から日本に伝来した。但し、隠元が持ち込んだのは、現在の「フジマメ(藤豆)」だという説もあり、関西ではフジマメのことを「インゲンマメ」と呼ぶ。

『黄檗清規』
 隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。


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