浄土真宗

     親鸞


1.概略
 浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、親鸞(しんらん)を開祖とする我が国最大の伝統仏教教団です。浄土宗から新たに独立した宗派で、「非僧非俗」(出家僧でもなく、俗人でもない)を標榜し、妻帯(妻を持つこと)を公然と認めた仏教教団として知られています。

2.教祖・重要人物
「親鸞」(1173〜1262)
 親鸞は承安3年(1173)、貴族・日野有範(ひのありのり)の子として生まれました。幼名は、松若丸。4才の時に父を、8才にして母を失ったため、9才の年で伯父の縁故によって出家し、比叡山において念仏修行の生活を送りました。

 20年が経過した29才の時、叡山を下りて京都市内の烏丸(からすま)の六角堂(頂く法寺)での百か日参籠(神社・仏閣などにこもって祈願すること)を決意しました。六角堂に祀られている救世観音(ぐぜかんのん、聖徳太子の真実身として信仰されていた観音)を通して、日本仏教の祖と仰がれる聖徳太子に祈願をしたのです。満願の5日前の未明に「法然のもとへ行け」との観音のお告げを受け、専修念仏を説く法然上人を訪れ、念仏による衆生済度(しゅじょうさいど)を確信し、法然の弟子となりました。このころ法然の元で学ぶ間に結婚したといわれます。

 その後、旧仏教側からの弾圧によって、親鸞は還俗(僧籍を離れて俗人にかえる)のうえ、越後(現・新潟県)に流されました。この地で妻・恵信尼(えしんに)を迎えた親鸞は、4年後に許されて常陸(現・茨城県)に移住し、60才頃までの約20年、関東で布教に専念しました。
 60才の頃に京都へ帰った親鸞は、異端の発生や長男・善鸞(ぜんらん)の義絶などがありましたが、90才の長寿を全うしました。
(より詳しく)
 
3.教典
 「浄土三部経」(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)
 (親鸞の著作)
 「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)

4.本尊
 阿弥陀如来
 (唱名)南無阿弥陀仏

5.教義
「絶対他力の念仏」
 親鸞が説く浄土真宗は、自らの信心のもとに念仏を唱える法然の教えとは違い、阿弥陀仏への信心自体がその人自身の意志(自力)によるものではなく、阿弥陀仏(他力)が差しのべた救いによって生ずるという「他力本願」に基づくものでした。阿弥陀仏に対する報恩感謝の思いが、親鸞の念仏というわけです。。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(悪人正機)
 「善人でさえも往生できるのだから、悪人ならなおさら往生できる」という意味です。親鸞自身が、煩悩にまみれた卑小な人間であることを認め、愚かで汚れた悪人はなおのこと阿弥陀如来がお救いになるのだ、という教えです。
 親鸞は肉食や妻帯、在俗在家の生活を肯定したので、浄土宗よりもさらに多くの人が信じるようになりました。

6.歴史
 親鸞の没後、末娘の覚信尼(かくしんに)が東山大谷に建てられた廟堂を守り、代々この廟は覚信尼の子孫が守ることになっていましたが、覚信尼の孫・覚如(かくにょ)の時、門弟と対立し、廟堂に本願寺という寺号をつけて独立しました。
 この本願寺は、八代・蓮如(れんにょ)によって大発展を遂げましたが、11代・顕如(けんにょ)の時、織田信長との対立が原因となって父(顕如)と子(長子・教如、きょうにょ)が不和となりました。

 秀吉の時代、顕如の跡目を末子の准如(じゅんにょ)が継ぐと徳川家康が教如を支援し、本願寺は准如の系統(本願寺派、本山・西本願寺)と教如の系統(大谷派、本山・東本願寺)に分かれました。
 
7.宗派
真宗教団連合十派とその本山
 浄土真宗本願寺派
  本願寺(西本願寺)(京都市下京区)末寺数 10497
 真宗大谷派
  真宗本廟(東本願寺)(京都市下京区)末寺数 9804
 真宗興正派
  興正寺(京都市下京区)末寺数 486
 真宗佛光寺派
  佛光寺(京都市下京区)末寺数 390
 真宗誠照寺派
  誠照寺(福井県鯖江市)末寺数 80
 真宗山元派  
  證誠寺(福井県鯖江市)末寺数 21
 真宗出雲路派
  毫摂寺(福井県越前市)末寺数 6
 真宗三門徒派
  専照寺(福井市)末寺数 41
 真宗高田派
  専修寺(三重県津市)末寺数 643
 真宗木辺派
  錦織寺(滋賀県野洲市)末寺数 250

8.主要寺院
  
9.その他
「妻帯」
 教義以外で、浄土真宗の他の仏教宗派に対する最大の違いは妻帯が許されるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は浄土真宗のみであった)。親鸞は僧として初めて公式に妻帯し子を儲けた。そのため、浄土真宗は法脈(師弟関係)と血脈の2つの系図が存在した。

「門徒物知らず」
 浄土真宗は、ただ南無阿弥陀仏を唱えれば全ての人は往生することが出来るとする教えなど、他の宗派と比べ多くの宗教儀式にとらわれないことから、庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い、「門徒物知らず」(門徒とは浄土真宗の信者のこと)などと揶揄される事もしばしばであった。

「阿弥陀仏の誓願」
 南無阿弥陀仏と念仏を称えるという称名によって、阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往生し、阿弥陀仏のもとで修行をすることによって仏陀となること(=成仏)ができる。なぜなら阿弥陀仏によって48の誓願(=四十八願)が完成されており、その第18番目の願(=本願)に「すべての衆生が救われなければ、わたしは仏とならない」と誓われているからである。

「善鸞事件」
 善鸞事件とは、1256年(建長8年)5月、親鸞が、実子であり弟子でもある善鸞を勘当・破門した事件である。事件から遡ること約20年の1236年(嘉禎2年)頃、親鸞が東国から急に京都に帰った後、東国では信者が動揺し、様々な異議異端が行われた。これに対し、親鸞は息子の善鸞を送ることで対処した。しかし、善鸞は、自分は親鸞より真に往生する道を教わったと嘯き、念仏は地獄行きの種であると説いた。それを知った親鸞は、善鸞に対し親子の縁を切り、破門した。

「歎異抄」
 歎異抄(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に親鸞の弟子である唯円によって、書かれたとされる。その内容が、親鸞滅後の浄土真宗派内に湧き上がった異議異端を嘆いたものであり、序文冒頭に「歎異先師口傳之眞信」(先師の口伝の真信に異なることを歎き)とあるため、「歎異抄」と呼ばれる。歎異鈔とも。

 本書の内容は、善鸞事件の後、作者唯円が親鸞より直接聞いた話による。
 また、親鸞の死後、親鸞の「自力の心を捨てて阿弥陀仏にすがる」という教えとは異なる教義を教団内で唱える者が現れた。唯円は、それらの教義が親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。

「親鸞を描いた文芸作品」
 出家とその弟子(倉田百三)
 親鸞(吉川英治)
 白い道ー 法然・親鸞とその時代(三國連太郎)


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