神 道

天照大神

1.概略
 神道(しんとう)とは、日本固有の多神教の宗教です。日本の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立しました。本来、固有の教義や開祖はありません。
 神道は日本国内で約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載がありますが、これは神社側の自己申告に基づく数字です。約85000の神社が登録されています。

2.教祖・重要人物

3.教典
 神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典を規範とします。
 
「古事記」
 古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によると、和銅5年(712年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれている。
 『古事記』に登場する神々が多くの神社で祭神としてまつられ、今日に至るまで日本の宗教文化に多大な影響を与えています。

「日本書紀」
 日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は奈良時代に成立した日本の歴史書。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたります。舎人(とねり)親王らの撰で、養老4年(720年)に完成しました。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱います。漢文・編年体をとります。全30巻、系図1巻。系図は失われました。

4.教義・戒律
 森羅万象に神が宿る(アニミズム)と考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視します。
 神道は神話に登場する神々のように、地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきました。

5.宗教行事・祭礼
「例大祭」
 祭祀は各神社の祭祀規程に基づいて大祭(タイサイ)・中祭(チュウサイ)・小祭(ショウサイ)・諸祭(ショサイ)に分けられます。大祭は一般的に例大祭と呼ばれ、中祭は各神社の由緒ある祭祀などで、小祭は大祭・中祭以外の特殊神事をいいます。諸祭は神社祭祀以外の祭祀を総称し、人生儀礼などの祈願がこれに当たります。

「初 詣」
 初詣(はつもうで)とは、年が明けてから初めて寺社(神社・寺院)や教会などに参拝し、一年の無事と平安を祈る行事です。初参り(はつまいり)ともいいます。
「お宮参り」
 初宮参り(はつみやまいり)とは、赤ちゃんが無事に生誕1ヶ月目を迎えたことを産土神に感謝して報告することを指します。通常、単に宮参り(お宮参り)というと初宮参りのことを指します。
「七五三」
 七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事。本来は数え年だが、現在は満年齢で行われる場合が多く、地方によっては男の子の3歳を行わない所もあります。

6.宗教生活・礼拝方法
「礼拝の方法」
 二礼二拍手一礼……二礼してから胸の前で二拍手し、祈り、手をおろして一礼します。

7.象徴(像・シンボル)
「八百万の神」(やおろずのかみ)
 『古事記』に記されている神道の神々の数で、実際の数ではなく「たくさんの神々」という意味です。神道では信仰の対象によって、それぞれ神がいるため神の総数が曖昧になっています。そのため八百万の神々と呼ばれたようです。『日本書紀』では八十神と記されています。
 (日本神話)   (主な神々)  (神々の系譜)

「天照大神」(あまてらすおおみかみ)
 太陽を神格化した神で、皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされます。実は男神だったという説もありますが、現在の史学会では女神であるというのが主流です。
 
「御神体」
 神社には、多様な神々が祀られていますが、その御神体としては、神鏡(カガミ)・磐座(イワクラ)(岩石)などが挙げられます。この御神体は、神自身を象徴するものではなく神が降臨して宿る処とされ、その意味から「御霊代(ミタマシロ)…神霊が宿る神聖な依代(ヨリシロ)」と呼ばれています。
 また、邇邇藝命によってもたらされた三種の神器は、八咫鏡(ヤタノカガミ)が伊勢神宮に、草薙剣(クサナギノツルギ)は熱田神宮に、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)は宮中にそれぞれ祀られ、何人も目にすることのできない神宝とされています。
 
「鳥 居」
 鳥居(とりい)は、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)で、神域への入口を示すものです。一種の「門」といえます。

「しめ縄」
 注連縄(しめなわ)は、神道における神祭具で、宗教上の意味を持つ紙垂(しで)をつけた縄をさします。標縄・七五三縄とも表記します。
 現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味します。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もあります。
 
「神 棚」
 神棚(かみだな)は、家や事務所などにおいて主に神道の神をまつるための棚です。一般的にみられるのは小型の神社を摸した宮形(みやがた)の中に伊勢神宮や氏神、信仰する神の神札(お札)を入れるもので、これは札宮(ふだみや)といい、狭義にはこれを神棚と呼びます。


8.歴史
 稲作の伝播に伴い、古代国家が成立していくにつれ、農耕儀礼を中心とした民俗信仰と現世利益を求める宗教祭祀がみられるようになります。
 
 神道の歩みに衝撃を与えたのは、6世紀の仏教伝来でした。「蕃神(トナリグニノカミ)」と「国神」との対立として、有力氏族間の対立がおこりました。また、仏教と対置される形で初めてわが国の神々への信仰に対して「神道」(『日本書紀』)という名称が用いられています。この仏教導入に関しては、国家統治制度の整備という時代の要請に伴うもので、日本の宗教界は神仏並行の時代を迎えました。
 
 7世紀初頭、「大宝律令」が制定されると、国家統治の最高府を司る2官の一つとして神祇官(ジンギカン)が置かれ、国家の年間祭祀が令(神祇令(ジンギリョウ))によって定められました。

 8世紀に入ると神道界は「神仏習合」の時代を迎えます。寺院に鎮守社を祀り、神社に神宮寺(神願寺)が建立されました。
 しかし、生活習慣となっている神々の祭祀を仏教などと同様に宗教とみなすには無理があり、神は仏(本地)の仮の姿(垂迹(スイジャク))であるとする「本地垂迹説」が起こり、鎌倉時代に盛んになりました。、
 
 本地垂迹説を理論化する教学として、「山王一実(サンノウイチジツ)神道(天台神道)」と「両部(リョウブ)神道(真言神道)」に代表される仏教的神道教学が誕生しました。一方、同じ鎌倉時代に神道の主体性を維持する教学として「度会(ワタライ)神道(外宮(ゲグウ)神道・伊勢神道)」が説かれ、室町時代に「吉田神道(唯一宗源(ユイイツソウゲン)神道)」が説かれています。
 
 江戸時代に入ると、前期には「神儒一致」を唱える「儒家神道」が盛んとなり、中期以降は賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤などの国学の興隆によって「復古神道」の流れが主流となりました。
 
 明治の新政府は、旧幕藩体制の温床(寺院の特権)を一掃するため神仏分離・廃仏毀釈を実施し、「国家神道」を生みだし、宮社制度を設けました。
 幕末から明治に成立した民衆を基盤とする新興の神道は、国家神道と区別され、「教派神道」と総称されるようになりました。(黒住教、天理教など……教派神道13派)
 
 第二次世界大戦後、日本を占領した連合国の対日政策、いわゆる「神道指令」により国家神道は解体され、神社は宗教法人として再出発しています。
 
9.宗派・分類
「神社の祭神」
 神社の祭神は、万物創造に関する神・霊能上の神・人の霊を祀る神・職業上の神・天象及び地象に関する神・動植物に関する神・食物に関する神などに分類されます。
 祭神(神徳)の名によって定められているお社(ヤシロ)の名称を数の多い順に紹介しますと、稲荷神社(五穀豊穣の守護神)と八幡神社(文化を導く神)が最も多く、次いで神明宮(天照大御神)・天満宮(学問の神で菅原道真公を祀る)・浅間(センゲン)神社(農家の守護神)・天王社(災厄懐除の神。氷川神社・熊野神社・津島神社・八坂神社の系統の神)などが挙げられます。
 
「神道の種類」
神社神道
 神社を中心とし、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態です。今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指します。
皇室神道
 皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道です。
教派神道(神道十三派)
 教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。他の神道とは少し性質が異なります。
古神道
「民間神道・民俗神道」や原始神道・縄文神道・古道(中華文明の原始儒教も同意であるがここでは除く)とも呼ばれ、日本で古くから民間でおこなわれてきたものや、修験などの古神道と習合した密教や仏教、あるいは道教の思想を取り入れた古神道などの信仰行事をいいます。
復古神道
 明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものです

10.その他
「神道における3種類の神」
自然神=自然現象を神格化した神
生活神=人間生活に関わる神……航海・婚姻・出産・戦争・金運
人間神=英雄や聖人などの人を神格化した神
     ……歴代天皇・楠木正成・菅原道真・徳川家康

「神道における3つの世界」
高天原(たかまがはら)=神の居る天上世界
葦原中国(あしはらのなかつくに)=人や獣のいる地上世界
黄泉国(よみのくに)=暗黒の世界(根の国)

「本居宣長」
 本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。
 
「教派神道」
 神道十三派(しんとうじゅうさんぱ)に代表される神道系新宗教教団のことで、戦前に政府から宗教団体として公認されていた以下の13の神道系教団を指す。
 幕末から明治にかけての政治的・社会的激動期を背景にして、民衆の活力によって発生した神道的宗教を基盤にする新宗教に端を発している。
 山岳信仰系=実行(ジッコウ)教・扶桑(フソウ)教・御岳(オンタケ)教
 純教祖系=黒住(クロズミ)教・金教(コンキョウ)教・天理教
 禊系=禊(ミソギ)教・神習(シンシュウ)教
 儒教系=神道修成(シュウセイ)派・大成(タイセイ)教(神道大成教)
 復古神道系=大社(タイシャ)教(出雲大社(オオヤシロ)教)・
       神理(シンリ)教・神道本局(神道大教(タイキョウ))
 ※ 天理教は政府から弾圧をさけるために神道十三派に入ったが、現在では神道十三派を抜け出し、諸派に分類されている。また、記紀神話を用いず、泥海古記(どろうみこうき)と呼ばれる独自の創世神話を持っている。
  
[天照大神を祀る神社] 
 天照大神を祀る神社を神明神社といい、全国各地にあるが、その総本社は神宮(伊勢神宮)の内宮(皇大神宮)である。皇大神宮は三種の神器のうちの一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を御神体として安置する神社である。日本全国のほとんどの神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布している。現在は存在しないが熊本県の八代市には上古に天照大神の山陵が在ったと伝えられる。
 
「儒家神道」
 近世に大きく発展した儒家神道はしだいに大衆に支持基盤を得て尊王攘夷思想を広め、討幕の国民的原理ともなっていった。

「伊勢神宮」
 伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗(ほんそう)とされる。正式名称は神宮(じんぐう)。他の神宮と区別する場合には「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて俗に「お伊勢さん」とも言う。神階が授与されたことのない神社の一つで、中世においては二所宗廟の一つとされた。明治時代から戦前までの近代社格制度においては社格の対象外とされた。

 伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮が存在し、一般に皇大神宮を内宮(ないくう)、豊受大神宮を外宮(げくう)と呼ぶ。内宮と外宮は離れた場所にあるため、観光の場合は時間の都合上、内宮のみ参拝することもあるが、本来はまず外宮を参拝してから、内宮に参拝するのが正しい方法とされている。元来皇室の氏神であることから皇室・朝廷の権威と強い結びつきがある。広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称する。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する。
 
「出雲大社」
 出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
 祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。康治元年(1142年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。

 縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日〜17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。

「古事記」
 古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば、和銅5年(712年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された日本最古の歴史書。上・中・下の全3巻に分かれる。
『古事記』に登場する神々が多くの神社で祭神としてまつられ、今日に至るまで日本の宗教文化に多大な影響を与えている。

「日本書紀」
 日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。

「七五三」
 七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝う日本の年中行事。天和元年(1681年)11月15日、館林城主、徳川徳松の健康を祈って始まったとされる説が有力である。
 男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年の11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁より)。本来は数え年だが、現在は満年齢で行われる場合が多い。地方によっては男の子の3歳を行わない所もある。
 現在では北海道を除いた全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。尚、上方発祥の習俗としては十三詣りがあり、これも徐々に全国に広がりつつある。

「宮参り」
 初宮参り(はつみやまいり)とは、赤ちゃんが無事に生誕1ヶ月目を迎えたことを産土神に感謝して報告することを指す。通常、単に宮参り(お宮参り)というと初宮参りのことを指す。
 日本には赤ちゃんの誕生と健やかな成長を願って、生誕約1ヶ月目に、両親と父方の祖母が付き添って神社にお宮参りをする風習がある。現代では父方の祖母だけでなく、母方の祖母が付き添うことも多くなっている。
 一般的に男の子は生後31日や32日、女の子は32日や33日に行われるようであるが各地域で様々である。最近では主に生後1ヶ月頃に行われていることが多い。
 京都においては、女の子が早くお嫁に行けるようにと、男の子よりも早い時期にお宮参りを済ませる風習がある。

「しめなわ」
 注連縄(しめなわ)は、神道における神祭具で、宗教上の意味を持つ紙垂(しで)をつけた縄をさす。標縄・七五三縄とも表記する。
 現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

 御旅所にも張られ、海の岩礁の内、奇岩とされるものなどにも注連縄が張られ、よく知られるものとして夫婦岩がある。また日本の正月、家々の門、玄関、出入り口などに飾る注連飾りも、この注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることを許される横綱も注連縄である。現在でも雷(稲妻)が落ちた場所で特に水田などでは青竹で囲い、注連縄をはって、五穀豊穣を願う慣わしが各地で行われている。

「神 棚」
 神棚(かみだな)は家や事務所などにおいて主に神道の神をまつるための棚である。
神棚には3種類ある。一般的にみられるのは小型の神社を摸した宮形(みやがた)の中に伊勢神宮や氏神、信仰する神の神札(お札)を入れるもので、これは札宮(ふだみや)といい、狭義にはこれを神棚と呼ぶ。神職の家など神式で葬儀を行う家には、仏教の仏壇に相当する祖先の霊をまつるための神棚があり、これは御霊舎(みたまや)という。

 他に、神札よりも神の依り代としての意味合いが強い「御神体」をまつる神棚もある。その場合は神棚ではなく「御神体」を授与した神社の分社とみなすほうが自然だ、とする考え方もある。
 神棚は、できるだけ明るく清浄な場所の、最上階(または上に上階の床のない箇所)の天井近くに南向きまたは東向きに設置するのが良いとされる。最上階の設置が困難な場合は「天」または「雲」や「空」と書いた紙を天井に貼り、その下に設置するのが良いとされる。設置場所がなくやむを得ずタンスの上にまつる場合は白い布か白い紙を敷いて神札を置くのが望ましい。壁掛けの簡易式の神棚というのもある。

11.「国家神道」関連
「国家神道」
 明治維新から第二次世界大戦までの日本で、政府の政策により成立していた国家宗教、あるいは祭祀の形態の歴史学的呼称である。「国体神道」や「神社神道」とも、また、単に「神社」とも称した。
 
「『宗教ではない』とされた国家神道」
 大日本帝国憲法では文面上は信教の自由が明記されていた。しかし、政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないというのが公式見解であった。
 政府による「神社崇拝」の国民への奨励の度合いは時代によって異なった。官国幣社は内務省神社局が所管し、新たな官国幣社の造営には公金が投入された。村社以上の社格の神社の例祭には地方官の奉幣が行われ、一種の国教的な制度であったとされる。

 宗教的な信仰と、神社と神社で行われる祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある。また1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。翌1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道は宗教・政治・教育を一体のものとした。

「天皇の神格性と現人神(あらひとがみ)」
 古来より天皇の神格性は多岐に渡って主張されるところであったが、明治維新以前の尊皇攘夷・倒幕運動と相まって、古事記・日本書紀等の記述を根拠とする天皇の神格性は、現人神(あらひとがみ)として言説化された。また、福羽美静ら津和野派国学者が構想していた祭政一致の具現化の過程では、天皇が「神道を司る一種の教主的な存在」としても位置づけられた。
 幕府と朝廷の両立体制は近代国家としての日本を創成していくには不都合であったが故の倒幕運動であり、天皇を中心とする強力な君主国家を築いていきたい明治新政府の意向とも一致したため、万世一系の天皇を祭政の両面でこれの頂点とする思想が形成されていった。


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