真言立川流

     荼枳尼天
(だきにてん)

1.概略
 真言立川流(しんごんたちかわりゅう)とは、鎌倉時代に仁寛によって開かれ、南北朝時代に文観によって大成されたとされる密教の一派です。

2.教祖・重要人物
「仁寛」(不明〜1114)
 仁寛(にんかん、生年不詳〜 1114年(永久2年))は、立川流の創始者とされる僧である。のちに改名して蓮念(れんねん)と名乗った。
(生涯)
 仁寛は、村上源氏の嫡流にして左大臣の源俊房の子として生まれた。叔父の顕房は右大臣で久我源氏の祖、従姉妹の賢子は白河天皇の中宮で堀河天皇の生母。また、兄の勝覚(しょうがく)は、真言宗系修験道の有力6流派(小野六流)のうち最大の流派・醍醐三宝院流の開基であった。
 仁寛は、勝覚の弟子として真言宗を熱心に学び、真言宗の僧の最高位である阿闍梨(あじゃり)にまで上り詰めた。そして、当時村上源氏が支持していた輔仁親王(後三条天皇の第3皇子)の護持僧に任ぜられた。

(千手丸事件)
 1073年(延久4年)に皇位を第1皇子の貞仁親王(のちの白河天皇)に譲った後三条天皇はその死に際し、次代の天皇に輔仁親王を据えることを遺言した。しかし、即位した白河天皇はこれに違背し、息子の善仁親王(堀河天皇)に譲位して院政を敷いた。更に堀川天皇が夭逝すると、当時5歳の宗仁親王(鳥羽天皇)を立てた。支持する輔仁親王が遠ざけられたことに対し、村上源氏は不満を募らせた。
 1113年(永久元年)、仁寛は輔仁親王を皇位に就けるべく、鳥羽天皇の暗殺を図った。しかしこの陰謀は事前に露見。実行役とされた童子・千手丸の供述によって仁寛は捕らえられ、尋問の末に犯行を自白した。同年11月、仁寛は伊豆の大仁へ流された(千手丸事件)。

(配流後)
 伊豆へ放逐された仁寛は名を蓮念と改め、真言の教えの伝道に努めた。武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会ったのはこの頃である。この見蓮をはじめ、観蓮、寂乗、観照らの弟子に醍醐三宝院流の奥義を伝授した。
 1114年(永久2年)3月、城山(じょうやま)の頂から身を投げ死亡した。彼の教えは見蓮らが発展させ、立川流を確立したとされている。
 なお、立川流に関わる文献は、そのほとんどが後世の弾圧により失われており、詳細は明らかでない。仁寛もまた例外ではなく、上に述べた生涯についても、疑問点が指摘されている。

3.教典
 「理趣経」(りしゅきょう)

4.本尊
「荼枳尼天」(だきにてん)
 荼枳尼天(だきにてん、茶枳尼天、荼吉尼天とも)は、仏教の神である。「荼吉尼」は梵語のダーキニーを音訳したものである。

 元はインドの女神であった。元々は農業神であったが、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。この神が仏教に取り入れられ、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、死者の心臓であれば食べることを許可されたとされた。

 日本では『古今著聞集』に霊狐信仰とのかかわりが記されている。この霊狐信仰とのつながりから、後代では稲荷信仰とも習合するようになる。また天皇の即位灌頂儀礼においてダキニ天を祀っていたという記録も存在する。その半面、外法として忌まれる信仰でもあった。なお、狐(夜干)に乗るダキニ天は、中世の日本で生み出された像であって、胎蔵曼荼羅や正当な密教経典・儀記には記されない姿である。

5.教義
 経典は理趣経(りしゅきょう)。邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、本来仏教では不邪淫戒で禁止されているはずの性交を奨励し、人間の髑髏を本尊とするなど、「淫祠邪教」(いんしじゃきょう:いかがわしい神を奉じ、人心を惑わす教え)と評されるのが一般的。

 特に髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂といって1000人の髑髏の上部を集めたもの、法界髏という儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。こうして選ばれた髑髏の表面に性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り(注1)、それを糊として金箔や銀箔を貼り、さらに髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。しかもその行の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。

 こうして約7年間もの歳月を費やして作られた髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現すという。下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語るという。
 
 しかし、この淫靡な儀式の奥には別の真実が隠れている。理趣経は本来男性と女性の陰陽があって初めて物事が成ると説いている。この儀式に7年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまうのである。

 ここまで真剣に女性原理を考えている宗教は無い。立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである。この点において、「女性は穢れた存在であり、仏にはなれない」と説いていた既存の宗派と異なる。
 立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵、もう片方が二鈷杵になっている。この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)という。
※注1:両液に糊としての作用はない。

6.歴史
 立川流は鎌倉時代に密教僧である仁寛によって開かれ、南北朝時代に南朝(吉野朝廷)の護持僧となった文寛によって大成されたといわれる。南朝第1代の天皇である後醍醐天皇の肖像画には、金剛杵を持った後醍醐帝が描かれている。

(創始)
 1113年(永久元年)、後三条天皇の第3皇子・輔仁親王に護持僧として仕えていた仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を図って失敗し(実行役とされた童子の名をとって「千手丸事件」という)、11月に伊豆の大仁へ流された。名を蓮念と改め、この地で真言の教えを説いていた仁寛は、武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮(兼蓮とも書く)と出会った。ほかに観蓮、寂乗、観照という3名の僧と出会った仁寛は、彼らに醍醐三宝院流の奥義を伝授した。

 1114年(永久2年)3月に仁寛が城山(じょうやま)から投身自殺を遂げたのちは、見蓮らが陰陽道と真言密教の教義を混合して立川流を確立し、布教したとされている。鎌倉には、京都から放逐された天王寺真慶らによって伝えられた。

  その後も立川流は浸透を続けた。『受法用心集』によると、真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていたといわれる。

(中興)
 鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観(もんかん)は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、自身は醍醐三宝院の権僧正となった。天皇が帰依したという事実は、文観にとって大きな後ろ盾ができたということであった。

 1322年(元亨2年)、文観は後醍醐天皇の中宮・禧子が懐妊したのに際して、安産祈願の祈祷を行った。しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺すことをも意図していたため、高時の怒りを買った文観は鹿児島の硫黄島へ配流された。

 1331年(元弘元年)に元弘の変が勃発した。倒幕計画に失敗して捕らえられた後醍醐天皇は隠岐島へ流されるが、悪党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、1333年(元弘3年)に倒幕が実現した。これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者(※)にまで上り詰めた。

 これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、1335年(建武2年)に大規模な弾圧を加えた。立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。一長者の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られた。その後も文観は、吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して陰で動いた。

 (※)勅任によって京都東寺に住した一山の首長の称号。

(その後)
 後南朝が衰退した後、立川流も徐々に衰退し、江戸時代の弾圧によって断絶。現在には伝わっていないというのが定説である。真言正統派においては、この邪説に対する反証として、戒律を厳しくするなどの試みが行われた。
 しかしその独特の教義は仏教の各派に多くの影響を残し、後の日本の密教思想の形成の大きな遠因となっている。

(参考文献)
京極夏彦『狂骨の夢』 講談社(講談社ノベルス)、1995年
笹間良彦『性と宗教―タントラ・密教・立川流』 柏書房、2000年
藤巻一保『真言立川流―謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』 学習研究社、1999年
真鍋俊照『邪教・立川流』 筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002年

7.宗派

8.主要寺院

9.その他
「理趣経」
 「理趣経(りしゅきょう)」という経典があります。正式名を「大楽金剛不空真実三摩耶経、般若波羅蜜多理趣品」といい、別名「般若理趣経」ともいいます。 真言宗で日常読誦されている重要な経典です。
 この経典は、誤解されやすい内容を含むということで、在家にはその内容を秘してきたという魅力的な経歴をもっています。たとえば、経典の読経にも配慮して、他の経典と違う読み方をするのです。

 一般に経典は呉音で読みますが、理趣経は古来より漢音で読みます。読経を聞いても意味がわからないようにするためです。しかし、努力の甲斐なく世間には「愛欲肯定の書」として有名になってしまいました。
 理趣経の内容は、十七段にわかれています。問題の箇所は初段にある「十七清浄句」といわれる箇所です。以下に和訳したものを紹介します。
(*:「佛典百話」高橋勇夫著/東方出版をテキストにして一部意訳しています。)

1 妙適清浄句是菩薩位
   異性との交情によっておこる恍惚境も清浄な菩薩の位である。
2 欲箭清浄句是菩薩位
   矢のようにはやる愛欲の心も清浄な菩薩の位である。
3 触清浄句是菩薩位
   たがいに触れあう(愛撫する)ことも清浄な菩薩の位である。
4 愛縛清浄句是菩薩位
   愛欲に縛りつけられるのも清浄な菩薩の位である。
5 一切自在主清浄句是菩薩位
   相手を自分の思い通りにして満足するのも清浄な菩薩の位である。
6 見清浄句是菩薩位
   愛欲の心をもって見ることも清浄な菩薩の位である。
7 適悦清浄句是菩薩位
   異性との交情によって生ずる絶頂の喜びも清浄な菩薩の位である。
8 愛清浄句是菩薩位
   異性に対する本能的欲望も清浄な菩薩の位である。
9 慢清浄句是菩薩位
   相手を自分のものだと自信を持つことも清浄な菩薩の位である。
10 荘厳清浄句是菩薩位
   愛欲の心をもって、自ら飾りたてることも清浄な菩薩の位である。
11 意滋沢清浄句是菩薩位
   良い香りで相手をいい気分にさせることも清浄な菩薩の位である。
12 光明清浄句是菩薩位
   愛欲によって光明のように輝くことも清浄な菩薩の位である。
13 身楽清浄句是菩薩位
   身体をきれいにして相手に楽しませるのも清浄な菩薩の位である。
14 色清浄句是菩薩位
   あらゆる事物の形や姿そのままが清浄な菩薩の位である。
15 声清浄句是菩薩位
   あらゆる事物の音声そのままが清浄な菩薩の位である。
16 香清浄句是菩薩位
   あらゆる事物の香りそのままが清浄な菩薩の位である。
17 味清浄句是菩薩位
   あらゆる事物の味そのままが清浄な菩薩の位である。

 ここまで率直に愛欲肯定を説かれたら、真面目な佛教徒は困惑してしまいます。「煩悩を断ずること」が釈迦以来の祖法であり、佛教の根本教理なのですから。そこで色々と理屈をつけ言い訳することになります。
 曰く、「これはもとより悟りの道を比喩的に説いたものである。」とか「人間的な欲望もまた宇宙生命につながるものとして、全面的な否定をしないのが密教の立場である。」となります。

 しかし、これはどのように言い訳されても、「性愛礼讃」を説いているとしか思えません。別にそれでもいいと思うのですが。性的な表現といっても、チベット佛教に比べたら可愛いものですよ。
 理性的なものと呪術的なもの。厭世的なものと現世肯定的なもの。何でもありで混然として妖しげなところが大乗佛教の魅力です。佛教はこれでなかなか奥が深いのです。

註1:この経典の読誦の習慣を定めたのは空海です。
 彼は、この経典の持つ「罪障の消滅や堕地獄を防ぐ」呪術的な効用に注目したといわれています。
註2:淫祠邪教といわれた真言立川流の所依の経典でもあります。
註3:最澄が空海に貸与依頼をして断られ仲違いする原因となった本が「理趣経釈」という理趣経の解説書です。
(蓮華院地蔵堂 HPより)

「仁寛と立川流」
 この真言宗の流派は、邪教として弾圧を受け、消滅した。
 この流派に関しては、今もなお謎が多い。彼らが記した資料のことごとくが、激しい弾圧によって焼き捨てられてしまったからだ。金沢文庫などに断片的な資料が残されてはいるが、彼らの教義を知るには「受法用心集」や「宝鏡抄」と言った彼らの敵が書いた書物が未だに第一級の資料とするしかないのである。

 確かに立川流は、我々の想像力を刺激する。
 髑髏本尊と言った不気味な修法を行い、反魂香なる香を焚いて死霊を呼び出し、男女和合を説いた日本版「左派タントラ」?
 しかし、この立川流の真の姿は、思われているほど奇怪な宗派とは言いがたい。「性」を神聖視する宗教とは、世界じゅうにいくらでもあるし、それが仏教に取り込まれたり、日本に存在しても不思議じゃない。また、髑髏本尊にしてみても、例えば「出羽三山」の即身仏ミイラ崇拝と比べて、どちらがより不気味なのだろうか? 

 そもそも、この立川流は数世紀に渡って存続した。初期と後期の教義はだいぶ違う。少なくとも、初期にあたっては、髑髏本尊や儀式的性交が行われていたとは考えられない(これらについては別項で詳述する)。
 また、立川流を真言宗の中に生じた単なる異端派のセクトと考えるべきでもない。立川流は、一時期には大勢力となり、権力者の支持も受け、高野山をはじめとした他の教学にも影響を与えたとも言えるのだ。

 私は、現在の中立的な仏教学者の多くがそうであるように、立川流を「邪教」とは考えない。 
 立川流の開祖は、仁寛であるという。だが、彼に関する記録はその多くが抹消されていて、非常に限られる。生年すら謎である。
 歴史学者達の研究により、仁寛が実在の人物であったことは疑問の余地は無い。だが、果たして彼が本当に立川流の開祖であったのだろうか? 「野沢血脈集」の脚注や「伝灯広録」という(記述にミスの多い)本、金沢文庫の資料などにも、彼が開祖であるとの記述がある。少なくとも、後世の立川流の信徒達は自分達の奉じる宗派を開いたのは、彼だと信じていた。歴史学者達も、明確な根拠は無いとしながらも、さりとて反証する材料も無いとしている。しかしながら、彼を開祖とするには、どうにも不自然だ。

 ただ、立川流が成立したのは、平安時代末期、いわゆる院政の時代であったことは確かだ。
 仁寛とはいかなる人物か?
 彼は、村上源氏の血をひく、有力者の出である。
 彼の父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位も持っていた。また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇の皇后で堀河天皇の母にあたる。まさに権力の中枢に居る高級貴族の出身なのだ。

 彼の血縁者が活躍したのは宮廷だけではない。彼の兄の勝覚は、真言宗の歴史の中でも大変に重要な高僧である。と言うのも、彼こそが真言系修験道の総本山である醍醐三宝院を開いたのである。この三宝院流は後に嫡流の定海によって大成し、醍醐寺を含む6つの大きな流派、小野六流の最大流派となり、さらに多くの支流を生み出す母体となっているのである。
 仁寛は、この兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学んだ。そして真言宗の僧の最高位である阿じゃ梨となる。そして、後三条天皇の子で、天皇位につくことが確実視されていた輔仁親王の護持僧となるのである。

 彼の将来は揚々たるもののように思われた。
 しかし、彼の人生は天皇家のお家騒動に巻き込まれ、大きく狂ってゆく。
 後三条天皇は、藤原氏とは直接の血縁関係が無い。それゆえに藤原氏を遠ざけ、天皇親政へと向かい始めた。藤原氏による摂関政治は衰退し、院政の時代が始まる。

 後三条天皇は自分の次の天皇として白河天皇を据えた。そして、その次の天皇には、先の輔仁親王を据えるように遺言したのである。しかし、白河天皇は色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇を据えた。いわゆる「白河院政」の始まりである。白河上皇は、堀河天皇の次には輔仁親王を天皇位につけてやる、と約束した。しかし、堀河天皇が夭折すると、約束を破りわずか5歳の鳥羽天皇を即位させてしまう。要するに、自分の院政の権力を守るために、父の遺言と弟との約束を反故にしたわけである。
 当然、輔仁親王は納まらない。

 この時、村上源氏の一族は、この輔仁天皇を支持していたのである。村上源氏にしてみても、輔仁親王が天皇位につくことを期待して、親王を支持していたわけで、まさに貧乏くじを引かされた格好だ。当然、不満がくすぶりだす。
 この時、「千手丸事件」が発生する。
 鳥羽天皇が即位してから6年後の1113年のことである。白河天皇の内親王・令子の御所に匿名の落書が投げ込まれた。内容は「輔仁天皇と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言うものである。さらにこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童の名が書かれていた。この千手丸は、仁寛の兄の勝覚に仕えていた稚児だったと思われる。

 ともかくも千手丸は捕らえられ、尋問された。すると、千手丸は「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。
 仁寛も捕らえられ、尋問を受ける。当初彼は否認したが、6日目には自白したという。
 そして、仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪となった。
 この事件は、不自然きわまりない。罰を受けたのは仁寛と千手丸だけである。この事件によって、輔仁親王と村上源氏の力は大きく削がれたが、特に罰は受けていない。また勝覚すらお咎めは無かった。また、仁寛の取調べの時も、白河上皇以外の公卿達はやる気の無い様子だったと言う。それに、暗殺計画自体が、あまりに杜撰すぎる。

 要するに、これは白河上皇が仕組んだ陰謀だったのではないか? と言うことだ。邪魔な輔仁親王と村上源氏の力を削ぐために、嘘の自白をさせ、事件をでっちあげたと。さすがに良心が咎めて、輔仁親王たちには直接手を出さず、仁寛だけを罰したのだと。
 仁寛が流刑地の伊豆の大仁についたのは、1113年11月のことである。
 そこで彼は名前を「蓮念」と改める。

 ここで、「武州立川の陰陽師」と出会う。この陰陽師は、神道を学び、易占を好んでいた。その彼が、仁寛に帰依する。法名を「兼蓮」という。また、他に伊豆出身者の浄蓮、遠江八田極楽寺学真房なにがしという弟子も、ほかに二人居たらしい。
 仁寛は、この三人の弟子に、密教の秘法をあまねく伝えた。
 そして、伊豆に流されてからわずか5ヶ月後の1114年3月、岸壁から身を投げて投身自殺をしたという。

 その後、立川出身のもと陰陽師の兼蓮は、この密教に陰陽道、易学、神道の教えを混合した独自の流派を作り上げた。これが「立川流」の始まりであるという。
 この伊豆に流されてからの話しというのは、「伝灯広録」という、いい加減な記述の多い本をもとにしているので、あまり信用が置けないと考える歴史学者も多い。だいたい、わずか5ヶ月で密教の奥義を伝授する、なんてのも無茶な話しだ。

 しかし、他の系譜資料にも名前が登場することから、「立川出身の兼蓮」もまた、実在の人物であったと思われる。 
 ともあれ、この出来たばかりの立川流には、まだ髑髏本尊の類の教義は無かったものと思われる。後に詳述するが、この教義は仏教教学から見るとあまりにお粗末で、仁寛ほどの頑学が、こんな主張するとは思えない。
 が、一種の「性」を神聖視する教義を伝えた可能性は大いにある。

 仁寛の兄の勝覚は、弟を重用した。にも関わらず、勝覚を開祖とする三宝院派の記録には、仁寛の記録は殆ど無い。後世の僧たちによって抹消されてしまったのだろう。だが、その断片的な記録に愛染明王の修法に熱中した、という記録があるからである。 
 また、弟子の兼蓮が陰陽師だったと言うのも、充分ありそうな話しである。

 陰と陽を「女性原理」と「男性原理」とし、これを密教の「胎蔵界」と「金剛界」と照応し、「理趣経」の文章を即物的に解釈した、というのも自然な話しだ。ともあれ、立川流の成立に、民間の陰陽師の関わっていたことは間違い無いと思われる。
 その後、この立川流は、民衆の間に、関東から広がり始め、やがて近畿にも達する。
 そして、その勢力は馬鹿に出来ないものへとなってゆくのである。

「立川邪教とその社会的背景の研究」 守山聖真 国書刊行会
「邪教立川流の研究」 水原尭榮 富山房書店
「性の宗教」 笹山良彦 第一書店
「邪教・立川流」 真鍋俊照 筑摩書店(ちくま文庫版もあり)
「真言立川流」 藤巻一保 学研
  (オカルトの部屋HPより)

「髑髏本尊」
 この髑髏本尊の作成方法は、誓願房心定の立川流批判の著書、「受法用心集」下巻に詳しい。
 この書によると、髑髏本尊は大頭、小頭、月輪鏡の3種類がある。
 また他に狐の頭部を用いた呪法の記述もある。
 
 まず大頭の作り方であるが、まず人間の髑髏が必要である。最良の髑髏は智者(高僧)のもの、続いて行者(修行を積んだ僧)、国王、将軍、大臣、長者、父、母、千丁、法界髑の順である。
 9番目の「千丁」とは、1千個の髑髏の頂上の部分を取り集め、これを磨り潰して丸めたものである。髑髏の頂上には6粒の「人黄」があるという。これは人間の魂魄が宿るところで、人間の命を宿し、生殖に必要な精液を作るところでもあるという。別項で詳述するダキニ天の好物も、ここであるという。これは明らかにヨーガで言うところの「サハスラーラ・チャクラ」が仏教に取り込まれ、変形したものであろう。

 次に「法界髑」であるが、これは旧暦の重陽の節句(9月9日)に墓場へ行って無数の髑髏を集めて積み上げ、毎日欠かさずダキニ天の真言を唱え続けると、底のほうにあったはずの髑髏が上のほうにあがってくる。この髑髏のことであるという。あるいは、霜の降りた朝に、一つだけ霜のかかっていない髑髏があれば、それでも良い。またあるいは、骨と骨との縫合線の無いものも、それであるという。

 こうして良い髑髏を手に入れたのなら、この髑髏に肉付けをする。顎をつけ、舌を作り、歯を付ける。麦漆に繊維屑や木粉を練り混ぜたもので骨の合わせ目を埋める。次にその上に良質の漆を塗り重ねる。
 次にパートナーの女性が必要だ。この女性は「吉相」を持った者でなければならない(この「吉相」については、「用心集」には記されてはいない)。

 この女と交わり、和合水(精液と愛液が混じったもの)を塗ること120回。そして、この和合水を用意する時は、女が妊娠しない様にしなければならない。妊娠してしまえば、和合水の力は無効となる。毎夜、子丑の刻に反魂香を焚き、その香煙を髑髏にあて、反魂の真言を唱えること1000回。
 以上の作業が終了したら、髑髏の中に種々の相応物(ゴマや芥子などの呪物、加持物)、秘密の符を書き込む。
 次に銀箔と金箔をおのおの三重に張り重ね、その上に曼荼羅を描き、さらに金銀の箔を押す。これを繰り返すこと120回(略式では5〜6回あるいは13回)。

 この曼荼羅を描くのは先の和合水でなければならない。
 舌と唇には朱をさし、歯には銀箔を押し、目は玉の義眼を入れるか絵筆で彩色する。そして白粉を塗る。
 その表情は美しい女か少年にし、貧相に作ってはならず、微笑を浮かべたものとする。怒ったような表情にするのは禁物である。
 これら全作業を行う時は、人気のない場所を選び、行者とパートナーの女、髑髏を加工する職人以外は、決して人を近づけてはならない。そして、ご馳走と酒を用意し、正月の時のように祝い楽しまなければならない。

 こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。
 こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。
 これを7年間続けるのである。

 そして、8年目になると、最上の成就を成すと、本尊は言葉を発して語りかけて来る。中程度の成就では、夢でお告げをくれる。最も低い成就では、お告げは無いが、一切の願い事は意のままに成就するという。
 なお、「小頭」は髑髏の頂上部分(人黄のあるところ)を八部に切り取って人面の形に加工し、霊木で頭蓋部分を作って組み合わせ、同じような作業を行う。

 「月輪形」の場合は、髑髏の頂上もしくは眉間の部分を切り取り、脳膜を乾燥させたもので種々の相応物と符を包んで、切り取った骨の裏に篭め、同じような作業を行うのである。
 以上が、髑髏本尊の作り方である。

 この髑髏本尊はいかなる理論によって成り立つのか?
 ここに「三魂七魄」説が関わってくる。これは、道教の理論である。人間の魂魄は、3つの魂と7つの魄からなる。魂は人間の精神的要素であり、魄は肉体的要素である。陽である魂が、身体の濁鬼である陰の魄を制御することによって、人間の生命活動が行われる。人間が死ぬと陽の霊である魂は抜け天に帰る。そして、死体には七つの魄だけが残り、やがて地に還る。だが、この魄は死後もしばらくは残っている。幽霊の出現などは、この魄だけが残って生じる現象であるという。

 髑髏には、この「三魂七魄」のうち、「七魄」だけが残っている。そこで、髑髏に生命を吹き込むには、足りない「三魂」を補ってやれば良いわけである。
 ここで重要になってくるのが「赤白ニ滞」の考え方である。人間の生命は、女の「赤」と男の「白(精液)」が、混ざり合うことによって生まれる。男女の和合水は、まさに「赤白ニ滞」の産物なわけであるから、これを塗ることによって、新たな生命たる「三魂」が補完され、この髑髏は生命を帯びるというわけだ。

 しかし、この教説は、非常にお粗末な代物なのだ。
 だいたい、道教の理論である「三魂七魄」説に、仏教の思想である「赤白ニ滞」説を横滑りさせるだけでも、乱暴な論の組み立て方だ。
 それに、仏教の生命の誕生説は阿含経に記されている。これによると、妊娠と言うのは母の赤、父の白の二滞が肉体の基となり、そこに中有(死んで肉体を失い、生まれ変わるのを待っている状態)の魂が飛び込んで、初めて人を生じる。

 いわば、「赤白ニ滞」と言うのは、仏教の教学では、魂の入れ物である肉体の原料に過ぎないわけで、「魂」そのものでは有り得ないのだ。 
 実際、立川流の僧たちも、それくらいのことは分かっていた。立川流においても、この「赤白ニ滞」は、あくまで魂の乗り物であって、魂そのものではない。

 にも関わらず、この髑髏本尊の理論では、この「二滞」と「魂」を混同していた。
 おそらく、文寛などの立川流の高僧たちは、このような髑髏本尊の建立などは、実践していなかった。
 これは、あきらかに、高度な仏教教学を知らない、民間の無教養な呪い師が考え出した呪術だろう。
 だが、中央から異端視され、弾圧すらされた立川流が、大勢力と成り得た秘密がここにある。

 立川流が成立したのは、平安時代末期から鎌倉時代である。この時代は、特権階級のものだった仏教が、急速に民間に広がった時代である。真言宗が、いわゆる「呪術宗教」として民間に受け入れられ、広がったのが、この立川流だったとも言えるのだ。民衆に支持された宗教の力は強い。
 いわば、この髑髏本尊は、民間に受け入れられた呪術を体現したものとも言える。

 私は当初、この髑髏本尊は、立川流の敵がでっち上げた創作ではないか? と疑ったことがある。
 しかし、民間において、こうした呪法が用いられていた可能性は極めて濃厚だ。 
 と言うのも、仏教においては、立川流が成立する以前から、仏教には人骨や髑髏を崇拝したり呪物として用いる教義が存在したからだ。
 一つ重要なのは、「仏舎利」の崇拝である。

 この髑髏本尊は、この仏舎利の崇拝が基となっているという考え方もある。例えば、仏舎利は、銀箔や金箔の箱に何重にも入れて安置する。これは、髑髏に銀箔や金箔を重ね塗りするのと通じるのではないか?
 また、古来から髑髏には鬼神が宿るという信仰もある。
 実際、鬼神の宿る髑髏を所有し、この鬼神を使役する、という呪術師の話しなども残っている。

 こうした信仰がないまぜになって、髑髏を用いた呪術が、すでに立川流の髑髏本尊以前から存在していたのは、間違い無い。
 例えば、「多聞ダキニ経」なる和製の偽経が、真言宗の仁和寺から発見されている。
 この偽経には、人骨と髑髏を用いて願いを叶える修法が説かれている。
 有徳の僧の髑髏を盤において供養すれば、お告げをくれるというのだ。

 また、1268年には、太政大臣西園寺公相の首が葬式の夜に切り取られ、盗まれる事件が起こっている。葬式を主催した僧に疑いがかけられた。
 さらに1293年には、行広という僧が、天武天皇の古墳をあばき、髑髏を盗掘するという事件が起こっている。
 鎌倉時代の天台宗の記録にも、髑髏を用いた呪術の流行の記録がある。
 これらが立川流の信徒の仕業だったと考えるのは早計だ。しかし、このような修法が、髑髏本尊の原型となったことは、おそらく間違いないだろう。

「立川邪教とその社会的背景の研究」 守山聖真 国書刊行会
「邪教・立川流」 真鍋俊照 筑摩書店(ちくま文庫版もあり)
「真言立川流」 藤巻一保 学研
「日本秘教全書」 藤巻一保 学研
  (オカルトの部屋HPより)

※「真言立川流」は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 を参考にしました。


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