天皇制

     明治天皇

1.概略
 天皇制(てんのうせい)とは、天皇を中心とする国家体制。特に天皇を元首または象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置づけている。

 「天皇制」という用語は本来共産党が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。

 第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なく一般にも使用されている。ただし、保守主義者は天皇制という語の由来からこれを忌避して皇室制度と呼ぶ傾向にある。

2.教祖・重要人物
「明治天皇」(1852〜1912)
 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、日本の第122代天皇。名は睦仁(むつひと)。その功績から、「明治大帝」、「明治聖帝」とも呼ばれる。

 近代天皇制が確立した時期の天皇である。在位は1867年(慶応3年) - 1912年(明治45年)。大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争などを経験し、明治新政府の最高権力者として祭り上げられた。また、明治天皇は乗馬を好んでいたといわれている。明治天皇の在位期間を「明治時代」と呼ぶ。睦仁死後の大葬の日には、乃木希典大将らが殉死した。

 (諡号・追号)
 在位期間の元号からとって、「明治天皇」と追号された。明治天皇の代から、元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない。(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)
 (系譜)
 父は統仁(孝明天皇)、母は中山慶子。父の嫡妻、九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。皇后は一条美子(昭憲皇太后)、側室は葉室光子・橋本夏子・柳原愛子・千種任子・園祥子。子は稚瑞照彦尊・稚高依姫尊・薫子・敬仁・嘉仁(大正天皇)・韶子・章子・静子・猷仁・昌子・房子・允子・輝仁・聡子・多喜子。

 (霊廟・陵墓)
 京都市伏見区桃山町にある上円下方墳の「伏見桃山陵」(ふしみのももやまのみささぎ)に葬られた。大正9年(1920年)に明治神宮に祀られる。その後、北海道神宮や朝鮮神宮(廃社)、関東神宮(廃社)などの海外神社に多く祀られた。また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

「大正天皇」(1879〜1926)
 大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。名は嘉仁(よしひと)。幼少時の称号は明宮(はるのみや)。

 大正天皇は1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。明宮嘉仁親王と命名された。生来健康に恵まれず、皇室の漢方医の記録によれば生まれた時に湿疹があったという(後に消失)。生まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。このような状態ではあったが、明治天皇は昭憲皇太后(一条美子)との間に皇子女が得られず、側室出生の親王・内親王ら4人も、大正天皇の出生以前に相次いで死去していたため、皇太子となった。なお、明宮は幼少期に昭憲皇太后の実子であると聞かされていたため、生母が柳原愛子と知った時には大きな衝撃を受けたという。

 (系譜)
 父は明治天皇、母は側室・御局であった公家の柳原愛子。 貞明皇后(九條節子)との間には迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)、淳宮雍仁親王(秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)の4男をもうけた。
 (諡号・追号)
 在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。
 (陵墓・霊廟)
 大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。 大正天皇を祀る神社はないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

「昭和天皇」(1901〜1989)
 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日〜1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。生没年が確認されている歴代天皇の中で、神話上の天皇を除き、在位期間および享年が最長である。
 (追号)
 在位中の元号である昭和より昭和天皇と追号された。
 
3.教典

4.本尊
 「シンボル」
十六弁八重表菊紋。天皇家の家紋であり、天皇の紋でもある。
後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。

5.教義

6.歴史
「古代」
 歴史学上、天皇家は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇家の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。

 8世紀になると中国の政治体制に倣った律令制が整備され、天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代天皇制)。このとき歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。律令制が確立した当初において、政治意思決定に天皇が占める位置は絶対的なものとされていたが、9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。

 11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まり、藤原氏(摂関家)の相対的な地位は低下した。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であった。

「中世」
 鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めたが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。
 室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂し、その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。

「近世」
 織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。
 幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。

「尊皇攘夷論」
 江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。

「明治維新」
 江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。

「大日本帝国憲法下の天皇制」
 大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主国になった。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。伊藤博文は、ヨーロッパでは政治体制(議会制度も含む)を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。

 実際に政治を運営するのは元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定されたが、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点はあいまいにされていた。対外的には天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。

 昭和期になるとこの体制の弱点が利用されるようになった。軍の統帥権は天皇にあるため軍は天皇以外の命令に従う義務がないとも言え、軍部が天皇の統帥権を振り回して独走を続けても、もはや統制できない状況になるケースもあった。二・二六事件の際は天皇自身が激怒し、「自ら鎮圧に行く」とまで主張したため、反乱軍は鎮圧された。また終戦の際、ポツダム宣言受諾・降伏を決断することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者・丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。

 なお、明治以降の天皇制は従来の天皇制と異なるとして、近代天皇制という用語が用いられることもある。

「日本国憲法下の天皇制」
 連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。天皇制は昭和天皇の各地への行幸や皇太子(今上天皇)結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。大衆の支持を基盤にした戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。

 憲法学では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。
 政府見解としては次のようなものである。
※1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁…(日本を)立憲君主制と言っても差し支えないであろう(趣旨)
※1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁…(天皇を)元首と言って差し支えないと考える(趣旨)

「戦後の論評」
 第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇制の是非について取り上げられたが、これ以降この問題を積極的に取り上げるマスメディアは殆どない。日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。

 各種の世論調査では象徴天皇制の現状維持を主張する意見が多数であり、現在のところ象徴天皇制は日本国民に支持されている制度であると言える。これについては、国民の天皇への関心が薄らいだことや、マスメディアが各方面からの圧力を恐れて天皇制の廃止につながる話題、批判をタブー視していること(菊タブー)が原因であるとする見解もある。

 「天皇制は日本人の心性に深く根ざしたもので、変える事は出来ないのではないか」と天皇制の支持者達が主張する事もある。例えば、戦後、天皇制廃止を叫んでいた日本共産党も、組織の内実は家父長的な指導体制を取っており、徳田球一委員長は「徳田天皇」と揶揄された(思想家、竹内好はこうした事態を「一木一草天皇制」と呼んだ)。しかし、天皇制も日本の歴史の中で様々に位置づけを変えてきている。その中でも天皇制が権力者にとって都合のよいように様々に利用されてきたことは注意すべき点であろう。
 
7.宗派

8.主要寺院
  
9.その他
「天皇制廃止論」
 天皇制廃止論(てんのうせいはいしろん)とは、日本国憲法の第1章に規定されている天皇制(象徴天皇制)あるいは皇室制度を廃止し、共和制に移行すべきだとする思想理論や政治運動のこと。
 反君主制運動の高まりの要件を世界的に見ると、ネパールのように政情不安な場合、反政府勢力や共産主義を含む革新勢力が勢いを増している場合、君主制の歴史が浅いなどの理由により国民が君主制を重視していない場合、君主自体が大いに批判要素を含む場合等が挙げられる。

 (分類)
 天皇制廃止論はさまざまな視点から、以下のように分類される。
1.戦争責任の追及
 明治憲法に規定された天皇の統帥権によって天皇が開戦・戦争遂行の責任者であるとして、責任を取って退位すべきだと主張する立場。
2.法の下の平等(憲法第14条)、基本的人権(憲法第11条)との矛盾
 天皇および皇族は皇室典範の規定によって世襲とされているため、職業選択の自由がなく、また、天皇は皇居、皇太子は赤坂に居住することになっており、居住および転居の自由がないので、天皇制による天皇および皇族の人権の制限(とりわけ自己決定権〔職業選択の自由、居住および転居の自由はこれに含まれる〕にかかわるものが多い)から解放すべきだと主張する立場。

3.皇室にかかわる諸費用の問題
 皇室にかかわる諸費用は税金の無駄使いであるとする立場。
4.身分としての天皇の是非
 天皇という地位に対して、尊敬または尊敬表現(敬語)を強要されることや批判が行いにくいことに反発を覚える立場。
5.個人としての天皇の是非
 今上天皇の人格そのものに対して、感情的に反発を覚える立場。

 戦後、長い間、1.が中心であったが、天皇の存在自体に対する批判よりも昭和天皇個人に対する批判の意味が強いため、1989年の昭和天皇の死去以降はほとんど聞かれなくなった。
 代わって現在は2.が優勢になりつつある。国民主権への受容と人権意識の向上が重なり、天皇および皇族に選挙権及び被選挙権がないこと、また、天皇・皇族という立場からふさわしくない発言を慎むことが求められていることは、言論の自由の侵害とも考えられる。また、否応なく公人の立場に立たされることからプライバシーの侵害も考えられる。

 日本国憲法に規定されているように、天皇は日本国及び国民統合の象徴で政治的権能を持たないが、日本国民の平均的な生活とかなり乖離した生活を送っている天皇を「日本国の象徴」とするのは疑問と考えられる。逆に、乖離しているからこそ、理想像的な象徴として機能し得るとも解釈可能である。いずれにしろ、天皇制反対派から見れば、乖離した生活を送っていることは人権侵害だと信じて疑わない。
 将軍の子孫は今は将軍ではなく、大名の子孫は今は大名ではないのにもかかわらず、天皇だけは今も世襲で存続していることも疑問と考えられる。

 また人間を象徴として飾り物扱いすることにも問題が指摘される。なぜなら「象徴」というのはオリンピックの象徴は五輪マーク、平和の象徴は鳩、春の象徴は桜であり、これらはすべて「モノ」だからである。
 また、反権威主義的な立場からは「権威だけあって権力を持たない者の存在はそもそも不必要」という批判がある。また、反権力主義的な立場からは「権威者も権力者もどちらも不必要」という批判がある。

 (天皇・皇族に適用を欠いているとされる憲法の条文)
※第14条:法の下の平等
「社会的身分または門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。」、2項の「華族その他貴族の制度は認めない」という条文があるが、天皇・皇族といった特別な地位に置かれ、皇室典範を適用していることは、明らかにこれに矛盾している。
※第15条3項:国民の公務員選定罷免権、普通選挙の保障
※第18条:奴隷的拘束及び苦役からの自由

皇族は生まれながらにして、外出時にSP付きの行動が強いられている。行幸、訪問、外交行為などの活動は本人の意思より宮内庁の管理が優先される。また、分刻みのスケジュールで動くことによって負担がかかる。
※第20条:信教の自由
神道の流れを汲む皇室行事を行っていること。
※第21条:集会・結社・表現の自由、通信の秘密
※第22条:居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由
※第24条:婚姻、個人の尊厳と両性の平等
天皇・皇族の婚姻は皇室会議の議を経て承認を得なければならない。両性の平等については、皇族離脱に関して、男性は女性に比べて意思による皇族離脱が制限されているなどの男女差別が見られる。
※第32条:裁判を受ける権利

 (歴史的な流れ)
 大日本帝国憲法下では、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされ、天皇制廃止論を主張することは不敬罪という犯罪であった。
 戦後は日本国憲法によって思想・信条・言論の自由が保障されているため、天皇制廃止論によって罪になることはない。しかし右翼団体の圧力もあり、報道関係者による天皇制批判の啓蒙行為は長い間タブーとされている(報道におけるタブー)。一般国民の置かれている状況とて殆ど変わらず、公の場で天皇制廃止を唱える行為は、たとえ相手が明確な右翼思想の持ち主でなかろうとも、基本的には反発や危険視を招く。

 (現状)
 天皇制廃止論者は、戦後の一時期(新左翼の流行期)を除けば、一貫して少数派であるが平成期に入ってからは再増加している。1990年1月16日の読売新聞に記載された世論調査「天皇制に対する国民の意識―天皇制」の結果によると、「廃止」が5%だった。1997年8月5日に「自民党が行った憲法に関するアンケート調査」では、「天皇制を廃止する」のが望ましいと答えた人が10.6%であった。
 日本では政治レベルでも市民レベルでも天皇制の廃止が議論されるまでには至っていないが、天皇制廃止論を提唱する有識者は少なからず存在し、新聞の論壇に載せられることもある。

 日本の右翼・保守主義者の多くは日本国家、あるいは日本の国体と皇室を同一視しており、天皇制の廃止を視野に入れた議論自体が「不敬」であり、或いは「反日」的な行為だと信じて疑わない。実際に、新右翼の鈴木邦男は、過去に天皇制の是非を問うテレビの対論番組に出演した際、右翼・保守主義者でない者も多数含むと思われる視聴者からの意見の大半が番組の存在そのものへの批判であったと語っている。批判の矛先は制作サイドや天皇制反対派のみならず、同じ右翼で天皇制支持派の鈴木にまでも向けられていたと言う。但し、アメリカ型社会を目指すリバタリアンの中には、反権威主義・財政のスリム化・大統領制への移行などを理由に廃止すべきと主張するものもある。

 一方で日本の左翼・革新主義者の多くは「全国民が完全に平等な国家」を理想視し、皇室の存在やそれに必然的について回る「特定の家系に対する敬意の押し付け」という考え方自体が反平等的であり、その考え方が現在の日本になお残る様々の差別または封建的慣習残存の遠因となっているので、それを是正して真の平等社会を実現するために天皇制を廃止すべきだと主張している。また、左翼の一部には皇室擁護の主張も存在している。

 (日本国外の反君主制運動の動き)
 他の君主国のなかではイギリスとベルギーでは近年王制廃止論が唱えられ、特にイギリスでは最近の世論調査で王制を廃止すべきという人が半数を超えた。一方で、オーストラリアではイギリス女王の統治による立憲君主制から共和制への移行の是非を問う国民投票が実施されたものの、結果は現状維持が多数だった。

 ネパールは2001年にネパール王族殺害事件が起こった。共産主義勢力はこの事件を利用し、君主制廃止への機運を高めようとしている。
 一方でカンボジアは政情が極めて不安定であった為、王制が復活されたと言う事例もある。また、タイでは政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、プミポン国王の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止論はほとんど唱えられていない。

 ギリシャは1973年に王制が廃止されてから政情が安定している。それ以前は軍事政権期で、国王は亡命した。1973年に国王が亡命中のなか、王制廃止の是非を問う国民投票が行われて、共和制派が多数を占めた。

「皇民化教育」
 皇民化教育(こうみんかきょういく)は大日本帝国の支配地域において、その主権者とされた天皇を中心として大日本帝国への忠誠を要求した教化政策。日本民族への教化政策であると同時に、植民地および占領地域の諸民族(朝鮮人、台湾人、アイヌ人、琉球人、南洋群島や東南アジアの先住諸民族)に対して行われた強制的な同化・教化政策である。皇民化政策とも言う。

 (具体的内容)
※言語統制。すなわち、日本語標準語の公用語化、教育現場における琉球語、アイヌ語、朝鮮語、台湾語などの禁止など(例えば琉球では琉球語を学校内で使用した児童生徒は罰札(方言札)を首から下げさせられた)。家庭内においても標準語を使用することが奨励された。
※教育勅語の「奉読」、奉安殿の設置などによる学校教育での天皇崇拝の強要、日の丸掲揚や君が代斉唱などを通じた日本人意識の植え付け。
※台湾神社、朝鮮神宮等の建立や参拝の強制などの国家神道と宗教政策(日本の宗教参照)。軍人への敬礼や皇居への遥拝など。

 (さまざまな観点)
肯定派
※国家に役立つ人材を輩出するために行われた。
※現在の価値観からは非難されるが、当時としては同化政策によって国民統合を図るのは普通のことであった。
※当時の西洋列強が行っていた、植民地支配と現地住民に対する扱いとは違い、皇民化政策は思想と言語統一によって他民族を日本人化することで、日本人と植民地住民を対等に扱おうとするものであった。現に一視同仁をスローガンにしていた。これは、当時の日本が構想した大東亜共栄圏に繋がる思想である。

否定派
※徴兵や植民地支配強化を目的とした政策である。
※皇民化教育は特に外地や占領地域においてそれぞれの民族の伝統や文化を無視し、ときには破壊した。民族浄化政策として自覚的に行われたと疑う論調もある。この時代の教育の影響で、民族語を持てず、民族的文化的アイデンティティーが危うくなるなどの後遺症に苦しむ人もいる。
※「日本人と対等に扱う政策であった」との擁護論があるが、実際には琉球人、朝鮮人、台湾人、アイヌ、東南アジア人は日本人の差別の対象であった。他民族を日本人化するという発想自体が日本人を優位とみるものであり、琉球人、朝鮮人、台湾人、アイヌ、東南アジア人を差別の対象としていた証左である。

 (戦後の政策への影響)
 第二次世界大戦終了後日本を占領したGHQは、国家のための自己犠牲を奨励していた皇民化教育が軍国主義国家形成に果たした役割が大きかったと考え、教育改革に乗り出した。教育勅語が教育現場から排除され、教育の基本法として教育基本法が制定された。


(天皇制は、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」を参考にしました)


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