フロイトとユング 




■危険なメソッド
 数年前、『危険なメソッド』という映画をビデオショップで見つけた。フロイトとユングを描いた2011年制作の映画で、デヴィッド・クローネンバーグ監督作品。私はこんな映画が作られていることに驚いた。あまりにも専門的・学術的なテーマだったから。半信半疑で借りたが、なかなか内容の濃い映画だった。

 フロイト(1856〜1939)とユング(1875〜1961)は心理学・精神分析に大きな影響を与えたことで有名だ。両者は師弟関係にあったが、次第に対立していく。フロイトは恋愛関係や性的関係を自説の中心に据えていくが、ユングはオカルトや超常現象に関心をもっていた。2人とも科学的に心理学の理論を構築しようとしたのだろうが、どうしても個人的な体験に左右されてしまう。フロイトは何か特別な性的体験があり、ユングはUFOでも見た経験があるのかも知れない。

■ザビーナ・シュピールライン
 映画では、ユングがザビーナという女性と不倫関係に陥る。実話らしい。この映画で初めて知った。ザビーナは重度のヒステリー患者で、ユングは、ザビーナの幼少期の記憶を辿り、彼女が抱える性的トラウマ(性的虐待)の原因を突き止めていく。その後、ユングとザビーナの不倫関係が生まれ、フロイトとの師弟関係がやがて学問的決裂に発展していく。

 キーポイントとなるのが、ザビーナの演技だ。女優のキーラ・ナイトレイが演じているが、ヒステリー患者の演技は、まさに鬼気迫るものがあった。
 ザビーナ(1885〜1942)は、本名ザビーナ・シュピールラインといい、ロシアの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。精神病院を退院後、大学医学部に入学し、統合失調症を研究する。フロイトに師事し、ウィーン精神分析学協会に参加する。

 1912年、ロシア系ユダヤ人医師と結婚。1923年、ソビエト政権下のロシアに帰国し、モスクワで幼稚園を設立。3年後、幼児たちへの性的虐待という冤罪をかけられ、閉鎖を余儀なくされる。背後には、精神分析学に対するスターリン政権からの弾圧があった。 1936年、大粛清の最中に夫が病死し、彼女と娘たちは1942年に故郷ロストフで、侵攻したナチの手で殺害された。
 ザビーナは、数奇な運命をたどった女性だった。スターリンとヒトラーという独裁者に夫も家族も奪われた。彼女を主人公にした映画も作られているらしい。

■モーセ
 かつては、フロイトの精神分析がもてはやされた時期があったが、現在は脳科学などにとって替わられた。「心」の問題を科学的客観的に取り扱うのは難しい。医学や科学が発達していない当時としては、さまざまな「仮説」を経験的に積み上げるしかなかったとも思う。
 ところで、フロイトとユングはユニークな研究をしている。

 フロイトは晩年に『人間モーセと一神教』という本を書いた。フロイトはユダヤ系で、ナチスに追われる中で、自分自身のルーツを解明せずにいられなかった。「旧約聖書」は、もう一つの研究対象だったのだろう。彼の精神分析の理論にも、多分にユダヤ教が影響していると思えてならない。
モーセは、古代イスラエルの民族的指導者で、奴隷のヘブライ人をエジプトから脱出させ、神との契約である「十戒」を与えた。フロイトは独自の視点で、モーセの実像に迫った。

 フロイトは本書で、モーセはエジプト人であり、モーセがヘブライ人に伝えた宗教は、世界初の一神教と言われるアートン教であるとする。それは、紀元前14世紀にエジプト第18王朝のアメンホーテプ4世(イクナートンと改名)が、エジプト古来の多神教を全面否定して作った太陽神信仰だった。しかし、これに反発するヘブライ人の手でモーセは殺された。だがその宗教は、預言者たちの努力によって継承され、ヤハヴェ信仰を一神教化する結果となったと説く。フロイトの探究心には驚く。

■曼荼羅
 一方、ユングはオカルトや東洋思想に興味を持った。これには、母方の家が霊能者の家系として有名だったことが影響しているともいわれる。
特に曼荼羅(まんだら)に関心をもった。ある時、ユングは、精神的不調の回復期に自分の描いた幾何学模様と東洋で瞑想の道具として使われている曼荼羅との偶然の一致に驚いた。

 曼荼羅とは、仏の悟りの世界をあらわした密教(後期の仏教)の図像で、菩薩などの姿が図式的、幾何学的に描かれている。仏教の集大成とも言える。
チベットの僧は、何日もかけて砂絵曼荼羅を描く。インドでは、結婚式などに「ランゴリ」という砂絵を描く習慣がある。ヒンドゥー教には「ヤントラ」という幾何学的な図がある。日本では空海が中国から2種の曼荼羅を持ち帰り、その後様々な曼荼羅が生まれた。曼荼羅の図形は、日常生活の中にもある。例えば、花。ダリアや菊は曼荼羅に似ている。曼荼羅は、人間の深層意識と深くつながっていた。

 ユングは、曼荼羅の図形は、人類に共通なイメージではないかと考えた。それを彼は「集合的無意識」と呼んだ。曼荼羅の特徴は、円形、対称的、幾何学的で安定感がある。それが人間精神を調和し再統合し、深い癒しをもたらすことを発見した。ユング派の心理学者が、「マンダラ塗り絵」を考案し、治療に使い始めたという。今では、癒しのために各種の「マンダラ塗り絵」が市販されている。

 フロイトとユングは独自の想像力で、人類の謎を明らかにしようとした。「モーセ」と「マンダラ」は、西洋文化と東洋文化を解くキーワードでもある。彼等の問いかけは、現在に生きる我々にも突きつけられている。                                  



(2020)

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