親鸞、日蓮、道元 




(左より、親鸞、日蓮、道元)

 私が仏教に関心を持ち始めたのは、今から40年以上前になる。大阪市内でアパートを借り一人暮らしを始めると、いくつもの宗教団体(仏教系・キリスト教系)が勧誘にきて、興味本位で集会に参加するようになった。その時は、宗教団体に対する恐怖心というものはなかった。彼等と接する内に、次第に宗教や仏教に関心が湧いてきた。
 さて、鎌倉仏教は、貴族の仏教から民衆の仏教になったと言われる。親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)、道元(どうげん)は、ともに比叡山で天台宗を学んだが、3人3様の道を進んで行った。

■親鸞
 親鸞(1173〜1263)は日本人に大人気で、小説や映画にもなっている。浄土真宗の開祖。比叡山で天台宗を学び、29歳のとき法然(ほうねん)に師事し、浄土教の教えを学んだ。親鸞の生涯を辿ると、どうしても胡散(うさん)臭さを感じてしまう。
 まず「六角夢告」と呼ばれる聖徳太子のお告げがある。女犯偈(にょぼんげ)という。「行者が前世の因縁によって女性と交わることになるならば、私が女性の身となって交わりましょう」という内容。これをどう解釈すべきか。女犯とは穏やかでない。既に親鸞に恋人がいたのか、毎夜性欲の炎に身悶えしていたのか。いずれにせよ、これが法然に師事する切掛けとなる。

 また「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な悪人正機説(法然が説いたという説もある)であるが、「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という者が現れた。さらに「阿弥陀仏」「念仏」「浄土」「他力」などは、雲を掴むような非現実的な話で、各人が自分勝手にどのようにでも解釈できた。
 実際、親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が起こった。親鸞の弟子唯円(ゆいえん)は『歎異抄』を書くはめになった。書名の示すとおり、教団内に湧き上がった異義異端を嘆いたもの。しかし誤解を招くため、長く禁書であった。明治以降、一般に読まれるようになる。

 親鸞は流罪により、生涯に非僧非俗の立場を貫いた。妻帯(3人?)し、子供(7人?)をもうけ、晩年には実の息子を義絶した。文学的表現をすれば「人間の煩悩を見つめ、それを生き抜いた壮絶な人生」となるが、単に女好きなカルト宗教のリーダーというイメージも漂う。こういう人物を教祖と仰ぐ宗派が、日本一の信徒数を誇っているのは驚きだ。

■日蓮
 仏教系の多くの新興宗教が押すのが日蓮(1222〜1282)だ。日蓮宗の開祖。比叡山などで修行ののち、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経の信仰を説いた。辻説法で他宗を激しく攻撃したため、弾圧をうけ伊豆、佐渡に流された。日蓮宗は、日蓮が独自に開いた宗派だという。
 日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が浄土宗などの邪法を信じているからだと考えた。このままでは国内で内乱が起き、外国から侵略を受ける。法華経を信仰すれば国家も国民も安泰となると主張した。

根拠としたのが、中国天台の「五時八教説」。5つの時期と8つの基準を設定し、それで漢訳の仏典を分別し,すべてを「法華経」に帰着させた。つまり「法華経」を無理やり祭り上げる教えだった。

 日蓮は「法華経が最高の教え」だと盲信し、頑迷に押し通した。それを元に「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と他宗を激しく批判した。四箇格言(しかかくげん)と言う。しかし、どの経典が重要かは宗派によって異なる。各宗派にはそれぞれ成立の歴史的理由があり、一方的に否定することはできない。そもそも、6世紀頃の学問的基準で鎌倉時代当時(13世紀)の教義を評価するとは本末転倒だ。それで他宗を攻撃するとは言語道断、「井の中の蛙大海を知らず」だ。

 日蓮は、猪突猛進型の熱血漢だった。そのエネルギーがあるなら、釈迦の真説を求めて中国やインドに行くべきだった。こういう独善的で排他的で時代錯誤的で反仏教的な教えが、新興宗教として多数の人々を洗脳しているのが現実である。

■道元
 親鸞や日蓮に比べれば、道元の人生はスカッと爽やかだ。道元(1200〜1253)は、日本曹洞宗の開祖。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。1223年中国に留学。帰国後、越前(福井県北部)に大仏寺(のちの永平寺)を開創する。

 道元が、まず疑問を抱いたのは「生まれながら仏性が備わっているのであれば、何故苦しい修行をせねばならぬのか」という「天台本覚論」への疑問だった。この疑問を解決するため、数年間禅を学んだ後、中国に留学する。
 道元の書いた『典座教訓』に有名なエピソードがある。道元が中国の港に到着した時、中国の老僧が、うどんに使う食材を買いに来た。老僧は寺院の食事係(典座)であった。道元は尋ねた。

「そんな食事の用意などは、新入りの若い者にでもさせればいいではないですか」
 すると老僧は大笑いして、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、全くわかっていない」と言い残して帰ってしまった。  
 後に道元は、経典の文字や思想の体系を学び、それが仏教であると自惚れていたことを猛反省した。日常生活の中に修行があり、そこに悟りがある。坐禅している姿そのものが仏であった。それを「只管打坐」(しかんただ、ただ坐る)と表現した。

 道元に「眼横鼻直」(がんのうびちょく)という言葉がある。中国から帰国し、修行僧を前にして語った言葉だ。「中国からの特別なみやげは何もない。ただ人の惑わしを受けず、眼は横に並んでついていて、鼻は真っ直ぐに伸びているということを学んだだけだ」という意味である。いかにも道元らしくて、私の大好きな言葉だ。                         

■参考
「親鸞」〈小説〉倉田百三『出家とその弟子』1917
        吉川英治『親鸞』1948
        丹羽文雄『親鸞とその妻』1957 『親鸞』1969
        三國連太郎『白い道』1982
        津本 陽『弥陀の橋は』2002
        五木寛之『親鸞』2010
    〈映画〉『親鸞』・『続 親鸞』1960 主演:中村錦之助
        『親鸞 - 白い道』1987 主演:森山潤久

「日蓮」〈小説〉山岡荘八『日蓮』1987
        大佛次郎『日蓮』1988
        童門冬二『国僧日蓮』2000
        三田誠広『日蓮』2007
        島田裕巳『小説日蓮』2012
    〈映画〉『日蓮と蒙古大襲来』1958 主演:長谷川一夫
        『日蓮』1979、主演:萬屋錦之介

「道元」〈小説〉井上 ひさし『道元の冒険 』1976
        立松和平 『道元禅師』2007
    〈映画〉『禅 ZEN』2009 主演:中村勘太郎



(2019)

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