マルクス主義

カール・マルクス


1.概略
 19世紀の資本主義社会は、過酷な労働環境をもたらすなど多くの矛盾・問題点を孕んでいた。その問題点は多くの学者によって分析され、理想の社会が論じられてきたが、特にカール・マルクス・フリードリヒ・エンゲルスらは、資本主義が成熟した後に社会主義が実現しうるとした。これがマルクス主義で、個人崇拝を排するため、「科学的社会主義」とも称される。

 しかし、実際には成熟した資本主義国では社会主義革命は起らず、資本主義国では、社会福祉・労働法規等の社会民主主義的政策によって一応の安定をみた。一方、ロシアなど資本主義が成熟していない社会において、改革を急ぐ急進的な人々により暴力的に革命・改革は実行された。現実的には「ソ連型社会主義」を標榜する国々が誕生したが、1991年のソビエト連邦崩壊に前後して、そのほとんどは姿を消した。

 社会主義革命は、その理想とは裏腹に多くの悲惨な結果と犠牲者を残した。これは20世紀における最大の社会実験であった。
 現在、社会主義国は、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、キューバなど極小数に限られる。

2.教祖・重要人物
「カール・マルクス」(1818ー1883)
 ドイツの革命家、哲学者、経済学者。ライン地方(プロイセン)の裕福なユダヤ人弁護士の息子として生まれた。ベルリン大卒。学位論文は「エピクロスの自然哲学」(1841年)。
 ブルノー=バウアーらの(ヘーゲル左派)に所属する。ボンに移り、大学教授を志したが果たせず、1842年ケルンに招かれ野党的な(ライン新聞)を編集する。

 1843年、幼なじみのジェニー=フォンウエストファーレンと結婚する。パリに移りルーゲと「独仏年刊」誌を発行、翌年、初めて生涯の友エンゲルスと知り合う。
 プルードンらの革命家グループと接触する。1845年パリを追放され、ブリュッセルに亡命する。1847年「共産主義者同盟」に参加する。1848年「共産党宣言」を起草する。
 まもなく、2月革命でベルギーを追われ、ケルンに戻り「新ライン新聞」を発行するが、ここもやがて反革命が勝利する。1849年ロンドンに亡命し、永住することになる。

 貧窮の中でエンゲルスの財政的支援でかろうじて生計を保った。大英博物館に日参してライフワーク「資本論」(第1巻、1867年)に取り組む。そのかたわら、1864年「国際労働者協会」「第1インターナショナル」を創立、その中核となるが、マッツィーニ、バクーニン、ラサールらのセクトと論争した。パリコミューン(1871年)を世界最初のプロレタリア政権として賞賛したが、その挫折と第1インターナショナルの分裂で失意の晩年を迎える。
 妻に先だたれた2年後、病気のため「資本論」も未完のまま、膨大な遺稿とノートを残して死ぬ。墓はロンドンのハイゲートにある。

3.教典
 マルクスの著作は「資本論」「経済学批判」「共産党宣言」「経済学・哲学草稿」など。

4.教義・戒律
 マルクス主義は、レーニンによるならばドイツの古典哲学(ドイツ観念論)、イギリスの古典派経済学、フランスの初期社会主義が、思想的な源泉だとされる(「マルクス主義の三つの源泉」)。

 マルクスは、資本主義の高度な発展が共産主義の基盤を形成すると見ていた。マルクスは、労働者階級をプロレタリアート、資本家階級をブルジョアジーと呼び、労働者が資本家から剰余価値を搾取され、支配されていると規定した。それに対してレーニンなどはブルジョアジーの支配を暴力革命によって打ち倒し、労働者階級の権力を打ち立てた後に共産主義社会を目指すのがマルクス主義の根本であるとした。そこには資本主義が未発達の後進国における意志的傾向が見られるが、結果的にマルクス主義は、マルクスが批判したイデオロギーの一つとなり下がったといえよう。

『共産党宣言』
 共産主義の基本的革命理論を構築したマルクスとその友であるエンゲルスは、その著書『共産党宣言』において、「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。」として、暴力によってのみ共産主義革命が達成できると主張した(暴力革命必然論)。革命理論としては他に、国家は抑圧のための暴力装置であり、全社会は相対立するブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級に分裂するという(階級国家観)。革命転換の時期においてはプロレタリアートの革命的独裁が行われなければならないという(プロレタリア独裁論)。「万国のプロレタリアよ団結せよ」で知られるプロレタリア国際主義などがある。

『経済学・哲学草稿』
 『経済学・哲学草稿』などの初期マルクスの思想に依拠する西欧マルクス主義者は、労働をブルジョアジーによるプロレタリアートの疎外という概念で説明した。つまり、プロレタリアートを被支配者、ブルジョアジーを支配者とし、資本家が利益を追求する以上労働者は労働者のままであり、資本家によって富から疎外されているととらえた。そして、この搾取がそれによる経済格差などの社会問題を生み出す原因であると考えた。ここでは、労使間は階級闘争に結びつく対立的なものとして捉えられている。

「弁証法的唯物論」
 弁証法的唯物論(史的唯物論)では、生産関係(下部構造)によって、社会形態(上部構造)が決まり、下部構造が変われば上部構造も変わると考えた。歴史的には、この関係を一方向的に捉え人間の主体性や創造力を軽視・無視する傾向が支配的となったこともあるが、これはマルクス主義の負の遺産であり、ドイツ・イデオロギーに見られるマルクスの思想とは異質のものであるともされる。

「唯物史観」
 また、歴史観においては生産力の発展が歴史の推進力であり、発展に応じて、原始共産制→奴隷制→封建制→資本主義→共産主義と社会が段階的に発展していく(唯物史観)とした。そして、その資本主義の究極の発展により、社会が弁証法的に否定の否定がなされ、ふたたび、そして資本主義の成果を止揚した共産制に転ずるというのがマルクス主義の基本理論である。

「無神論」
 「宗教は民衆のアヘンである」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定する。階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が殺害された。マルクス・レーニン主義者の、宗教に対する否定的な姿勢は、戦闘的と言ってもいい。

5.宗教行事・祭礼

6.宗教生活・礼拝方法

7.象徴(像・シンボル)

8.歴史
 マルクス主義の運動は、19世紀末にベルンシュタイン(1850ー1932)による修正主義を生み、議会制民主主義と段階的な社会改良による社会主義への平和的・連続的な移行を説くようになり、一方、レーニン(1870ー1924)によるロシア共産主義は、議会主義の未発達なロシアの現状から武力による革命と革命の前衛党である共産党の独裁を強調した。

 マルクス本人の「これをマルクス主義というのなら、私はマルクス主義者ではない」という発言もあり、何を以てマルクス主義と定義するかという論争はマルクスとエンゲルスの死後にいっそう活発に行われた。「正統なマルクスの後継者は誰なのか」「科学的社会主義の正しい理解とは?」ということが労働者に基盤を持つ革命家たちの焦眉の課題となっていき、マルクスの残したテキストはドイツ、またはロシア社会民主党員の間では政治闘争の武器となってしまった。

 1917年のロシア革命をレーニンらがプロレタリア独裁をめざす革命と規定したことにより、『マルクス主義の実現を果たした』ロシア(ソ連)のレーニンが、そしてレーニン死後は書記長として権力を掌握したスターリンが、マルクス主義の最高権威であるとされた。理論の正統性なるものが一部の人物や傾向に独占されたことは、共産主義運動内部での理論的批判を著しく困難にした。

 同じマルクス主義でもレフ・トロツキーやローザ・ルクセンブルクの著作は、レーニンやスターリンに対する反逆として共産主義運動から追放され、その他のブハーリンなどの異論はスターリン時代のテロリズムや粛清裁判で物理的に排除された。従って、毛沢東のようなマルクスの予想の埒外の革命戦略は、マルクス理論に照らして検証されず、中華人民共和国がソ連から自立したときにかえって中ソ論争の火種となったと考えられる。イタリア共産党創立者のグラムシのような、現代でも豊かな可能性がある社会思想が積極的に紹介されたのは、スターリン死後のことである。
 
 ソ連型のマルクス主義(マルクス・レーニン主義、その後継としてのスターリン主義)に対して、西欧のマルクス主義者は異論や批判的立場を持つ者も少なくなかったが、最初に西欧型のマルクス主義を提示したのは哲学者のルカーチだった。ルカーチはソ連型マルクス主義の弾圧に屈したが、ドイツのフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者たちは、アドルノやベンヤミンを筆頭に、ソ連型マルクス主義のような権威主義に対する徹底した批判を展開し、西欧のモダニズムと深く結びついた「批判理論」と呼ばれる新しいマルクス主義を展開し、ポストモダンとされる現代思想に対しても深い影響力を見せている。

 20世紀に入って、マルクス主義を思想的基盤として、ソビエト連邦をはじめ、アジア・東欧・アフリカ・カリブ海域において、多くのソ連型マルクス主義(スターリン主義)による社会主義国が生まれた。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊に前後して、そのほとんどは姿を消した。国家自体は維持したまま社会主義体制を放棄したケースもあれば、社会主義体制放棄とともに複数の新たな国家に分裂したケースや、近隣の資本主義国に吸収統合される形で国家ごと消滅したケースもあった。

 現在もマルクス主義(マルクス・レーニン主義)を標榜しながらスターリン主義体制を維持している国家として、中華人民共和国、ベトナム社会主義共和国、ラオス人民民主共和国、キューバ共和国がある。これらの多くが、指導思想として掲げているマルクス主義と諸政策との整合性にも苦しみ、それまでのソ連型社会主義体制と現実の諸政策との整合性にも苦しみ、中華人民共和国、ベトナム社会主義共和国などは指導思想の解釈を変化させる頻度が増えている。

 朝鮮民主主義人民共和国については極端に情報不足で内情がつまびらかではないが、スターリン主義型の党―国家体制が揺らいでいるという情報もないまま、1990年代に入ってマルクス主義を指導思想とする看板さえ降ろし、その後、公式プロパガンダの内容を変化させることが劇的に増えている。

9.宗派

10.その他
「労働者を救うための解決策」
 現在日本においては単に「社会主義」といった場合は、社会主義革命を掲げる政党による一党独裁制と結び付けられているが、当初のマルクス主義における社会主義・共産主義思想における社会は、どの段階においても民主を前提に構成され、特定の権力が民衆に圧力を与えない平等で安定した社会を目指すことが前提だった。

 もともと社会主義は、どうしたら労働者階級の人々が立場を保障され、平等に暮せるかということに対して生まれた思想であり、当初は労働者階級を対象とした思想であった。この中では、まず資本主義社会があってその資本主義社会が完全に成熟された状態で、生産手段の社会化を行う社会主義社会となり、さらに社会主義社会において経済や生産技術が発達しきった段階で共産主義社会へ到達するとされ、社会主義は資本主義が発展しきった後の共産主義へ成長する過程の段階であるとされていた。

 生産力を持たない労働者階級は、19世紀以降の産業革命後の資本主義社会において、過度の競争により貧富・階級差が社会に生じたために、劣悪な職場環境・住環境の下での苦しい生活を余儀なくされており、当然彼らの中にも不満は増大していた。社会主義は、苦しい生活を送る労働者を救うための解決策として注目を浴びた思想だったのである。

「官僚支配」
 社会主義革命の成立した国では、中流階級である知識人や自営農民の支持を得られたことが革命の成功要因のひとつとなった(そもそも革命指導者の中には中上流階級の出身者が多かった)のだが、彼らの少なからぬ部分は革命後の権力闘争に巻き込まれ、「人民の敵」として革命後迫害されたりした。また、生産手段の共有化を図ったとしても、結局は国家なり権力なりがそれを管理し、支配しなければならないことは、官僚支配に落ち込んで行く陥穽でもあった。

「唯物史観」
 社会主義者は唯物史観によって、社会は根本的に経済的要因で動くと考える(よって、戦争の発生の原因も当事者間の錯誤や読み違い、支配欲や名誉欲や敵愾心にもとづく対立は本質ではなく、金融資本家の利益追求に原因であるものと考える)が、唯物史観の批判者は、これを文化などを無視した思想と解釈し、人間蔑視の思想であるとして宗教や思想の自由を迫害する遠因もこの見方によるものであるとすることが良くある。また、これは古い階級社会であるヨーロッパの知識人であったマルクスの無自覚な大衆蔑視と無関係ではないともする。

「社会主義思想の恩恵」
 実際の資本主義国は労使協調による修正資本主義や、社会民主主義の参画により市場経済を前提にしながらも平等な生活の実現を謳う混合経済体制へ発展し(この点から、社会民主主義者達は、自らを社会主義の本流と位置づける向きもある)、産業構造の変化や技術の進歩などによって労働者達の生活にも相当の向上が見られた。この点においては、社会主義思想の伸張によって刺激を受けた「功」の側面を否定できない。

「抑圧的な政治体制・無謬かつ絶対の真理」
 マルクス主義を標榜する国家は民主政・工業化・資本主義経済が発展していなかった地域に多く成立した。ここに、いわゆるソ連型社会主義が生まれてくることになる。このようなソ連型社会主義は、社会主義を無謬かつ絶対の真理として推戴し、労働者を抑圧から解放するどころか、国民の人権・自由を抑圧し、ここに「社会主義」・「共産主義」イコール「抑圧的な政治体制」という現実ができてしまったのである。

「共産主義社会の次は?」
 奇妙なことに、一旦社会が共産主義段階に到達した後のことについてはどの原始マルクス主義文献にも記述がない。わずかにレーニンの「国家と革命」にあまりにも長閑な楽観された理想郷社会が描かれているだけである。まるで共産主義段階に達した後は社会の一切の発展が止まり、永遠の安定が保証されているかのごとくであり、明らかに唯物史観と矛盾する。これを、結局はマルクスといえどもその思考過程の根底にあるキリスト教的なものを廃絶することができず、最後は世界が千年王国に到達するのだという意識を捨てきれなかったと見る向きもある。

 この資本主義の本質はブルジョアジーによる搾取であるから、プロレタリアートによる革命によって共産主義に取って代わりさえすれば、社会問題は完全に解決されると考えたマルクス主義者が多かった。

「党官僚の特権化」
 遅れたロシアでは執権すべきプロレタリアートは存在せず、プロレタリアートが発生するまでは党が民衆を指導しなければならないとした。が、レーニンが想定した「プロレタリアート」は発生せず、党官僚がそのまま社会のエリート、特権階級として定着してしまった。

「監視社会」
 反革命の摘発自体は、マルクス・レーニン主義に始まるものではない。フランス革命も、絶対王政諸国から反革命戦争を挑まれ、国内において反革命と思われる民衆を大量に処刑した。実際、レーニンはフランス革命を参考にして内戦の期間中革命法廷を設立している。

 秘密警察(チェーカー)は、帝政ロシアのオフラーナを基にしているが、強制収容所はレーニン自身が提唱したものである。国民の生殺与奪を握ったチェーカーと強制収容所も、最初は資本主義国家群や反対者による反革命に対抗する目的で創設されたが、先進国・その他の資本主義国家群において社会主義革命が起こらないまま守勢に回るに及んで、監視社会と呼ばれる状況が出現し、ほどなくして史上最大の監視社会が誕生した。

「思想への思い入れ、階級憎悪」
 マルクス主義者は、学説の一つであるマルクス主義を真理だと確信する傾向がある。しかも、プロレタリアートとブルジョアジーは和解できないとの立場から、ブルジョアジーや革命を阻害する勢力・人物に対して激しい憎悪を持つことになる。これが、国民の自由の弾圧へとつながった。

 マルクス・レーニン主義者は現実を無視して理論を選ぶ、あるいは思想に対する激しい思い入れをもつ、との考えから、マルクス・レーニン主義を擬似宗教と呼ぶ者もいる。小田実は、マルクス・レーニン主義の体質は、カトリックに似ていると主張する。その中で「プロレタリアート=信徒、党=教会、書記長=ローマ教皇とそのまま置き換えられる」としている(ロシアはカトリックではなく東方正教圏なので、ロシア正教会に準えられる場合もある)

「全体主義体制」
 「共産主義を目指した国家」はいずれも、資本主義における市場経済や生産手段の成熟を待つことなく、共産主義建設の前提・暫定措置としてソ連型社会主義に移行したまま、そこに留まってしまった。共産主義社会はおろか、社会主義の実現にも成功したとは言えず、その中で、生産手段の私有の廃止・労働機会の官有による権力の集中は当初の目的をはずれ、単に資本家に代わって、その国で共産党を名乗る政党が生産手段を独占するだけに終わった。

 また政治的にも、これらの国々は議会制度が十分に成熟・機能していない状態からただちに共産主義を目指したため、共産党(を名乗る政党)による一党独裁制に陥った。特に、ソ連のスターリン執政期や中国の毛沢東執政期にいたっては、自分の政策に反対する勢力や同僚を、政治的にまたは物理的にに抹殺するに止まらず、政策に反発する市民やまったく無関係・無関心な人民までをも大量虐殺し、大量に餓死させるなど、歴史的に新奇な全体主義体制を創り出した。
 
 スターリンや毛沢東の独裁は、マルクスやレーニンが目指した「共産主義」からは、大きくかけ離れているが、この歴史的事実は、共産主義のイメージを大きく歪ませてしまった。

「農産国ロシアの革命」
 まず前提として資本主義社会があり、その資本主義社会が成熟した状態で、革命を通じて社会主義社会を目指してプロレタリア独裁体制を樹立し資本主義的な制度の廃止を行い、その後不必要になったプロレタリア独裁を廃止し生産手段の社会化が成された社会主義社会となり、さらに社会主義社会において経済や生産技術が発達しきった段階で共産主義社会へ到達するとされ、共産主義は生産的にももっとも高次で、成熟した社会の段階であるとされた。 だが、最初に共産革命が起きたのは資本主義などまったく成熟していない農産国のロシアであった。

「社会主義国の低生産性」
 計画経済の下では資本主義諸国に比べ生産性の向上が遅い。これには、
・市場での競争原理が働かないため、各事業体がノルマの達成だけを考え、商品や生産技術を進歩させようと考えない
・厳しいノルマの生産計画により、生産設備も労働者も疲弊してしまう
・労働者がいくら働いたところで同じ給与しか貰えないからと仕事をあまりしない

・需要を考えずに計画を立ててしまい、製造しても売れない
・無能な経営者の淘汰が構造的に起きにくい(資本主義では株主などの直接的な利害関係者がチェックし経営者を変えられる)
 などの理由が挙げられている。また、冷戦による軍事費の増大は、経済基盤が元々弱い社会主義国にとっては大きな負担となった。

「社会主義の掲げた理想」
 社会主義の掲げた理想は皮肉なことに、社会主義国では労働組合が傀儡化され、階級も固定化されるなどまったく実現されず、一方、資本主義国側では、教育水準の向上が社会流動性をもたらし、社会保障等の福祉制度の充実となによりも生産力の向上が、貧困の克服と社会の成熟と安定をもたらした。資本主義体制下にあっても、社会保障を整備することで、国民全体の所得は向上し、貧困からの脱却が可能となり、革命によるものよりもはるかに豊かな社会を実現し得るということである。

 こうした事実の認識は、ソ連の崩壊によって確固たるものとなった。ここに至って、世界各国の社会主義、共産主義政党はプロレタリア独裁のドグマを放棄し、イタリア共産党のように社会民主主義政党へ路線転換したりするなど、社会主義者・共産主義者からの歩み寄りもみられるようになった。日本共産党もまた、1974年にプロレタリア独裁の規定を放棄している。

「イデオロギーの輸出」
 ソビエト連邦はイデオロギーの輸出と言う全く新しい世界侵略の方法を生み出し、国内向けには恐怖政治、国外向けには自国の軍事力に加え、各国の共産党に指示や武器等を与えることで世界革命を実現しようとした。実際、第二次世界大戦後多くの東欧の国々が「解放」され社会主義国となった。

「文化大革命」
 文化大革命は、中華人民共和国で1960年代後半から1970年代前半まで続いた政治・社会・思想・文化の全般にわたる改革運動で、ほとんどの中国国民を巻き込んだ粛清運動として展開した。無産階級文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう。
 はじめ毛沢東指示のもと、劉少奇からの政権奪権を目的として林彪の主導により進められた。林彪の事故死後は四人組に率いられて毛沢東思想に基く独自の社会主義国家建設を目指したが、実質は中国共産党指導部における大規模な権力闘争であった

 共産党指導部に煽動された暴力的な大衆運動によって、当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医者、などの知識人等が弾圧の対象となった。しかしその後弾圧の対象は中国共産党員にも及び、多くの人材や文化財などが被害を受けた。期間中の行方不明者を含めた虐殺数は数百万人とも数千万人とも言われる。

「犠牲者数」 (『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
◆毛沢東が虐殺した数 6500万人
 八路軍による長春包囲作戦での市民犠牲者 33万人
 江西省に一時建国された中華ソビエト共和国臨時政府にて処刑された旧地主階級・知識人・一般国民 18万6千人
 中華人民共和国成立後に、1953年までに反政府勢力として処刑された旧国民党、富裕層、旧地主階級、知識人71万人(中国の解放軍出版社より出版された国情手冊)

 チベット解放の美名のもとに中国によって殺されたチベット人 1950年から84年までの間で120万人以上
 大躍進政策による餓死者 2000万人〜 4300万人
 文化大革命での犠牲者 2000万人

 文化大革命で破壊された治安回復の為、軍優先に転換した毛沢東に見放され、地方に送り出された先々で軍・民兵(文化大革命で被害を受けた側)の復讐(リンチ殺人)対象となった元紅衛兵
 文化大革命のどさくさに紛れ、国家分裂を防ぐために処刑されたといわれるチベット族・ウイグル族などの少数民族。これにより少数民族の多くが漢族に籍を移したという。
 江西省 10万人、広東省 4万人、雲南省 3万人

◆第二次天安門事件(1989)で殺されたデモ学生数 319人(中国政府公式発表)
◆ポルポトがカンボジアで虐殺した数 150万人〜300万人

◆ソビエト連邦解体までの70年間に粛清された数
 (現行のロシア政府が1997年に認めた公式データ) 6200万人
◆1937年から1938年までの一年間でスターリンが虐殺した数 2000万人

◆北朝鮮 200万人
◆東ヨーロッパ 100万人
 カティンの森事件で虐殺されたポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主の人数 2万5千人
 旧ソ連の偽りの呼びかけに欺かれて呼応し、ワルシャワ蜂起に参加後、旧ソ連軍に見殺しにされたレジスタンス市民の犠牲者

 ハンガリー動乱での犠牲者 数千人
 東ベルリン暴動での犠牲者
 ベルリンの壁突破失敗の犠牲者
 ティミショアラの虐殺での犠牲者

◆ラテンアメリカ 15万人
◆アフリカ 170万人
◆アフガニスタン 150万人
◆その他の共産党 1万人

「主な社会主義国」
 アジア=中華人民共和国  朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) ベトナム  ラオス  スリランカ
 ラテンアメリカ=キューバ
 アフリカ=アルジェリア

※大部分は「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」を参考にしました。


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