ナチズム

アドルフ・ヒトラー


1.概略
 ナチズム(英: Nazism、独: Nationalsozialismus)は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を代表とするイデオロギー。1933年から1945年までのナチス・ドイツの期間には国家の公式イデオロギーとされた。ナチズム以外の政治的立場からは極右に分類され、具体例として挙げられる場合が多い。日本においては国家社会主義等の訳語が当てられることもある。

 「ナチス」や「ナチズム」は、国家社会主義ドイツ労働者党の蔑称であるナチから派生したものであり、支持者達は『Nationalsozialismus』を称した。この言葉は日本では国家社会主義、国民社会主義、民族社会主義などと訳される。敵対する社会主義・共産主義陣営であるスターリンやコミンテルンは、ナチズムはイタリアのファシスト党のイデオロギー「ファシズム」の一種であると定義し、「ファシズム」と呼んだ。

2.教祖・重要人物
「アドルフ・ヒトラー」(1889年4月20日〜1945年4月30日) (略年表)
 出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州であり、国籍としてはドイツ人ではなくオーストリア人であったが、民族としてはドイツ人である。1932年にドイツ国籍を取得してドイツ国の国民となっている。

 第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後合法的な選挙により勢力を拡大した。

 1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し、ドイツ国における全ての法源となる存在となり、ヒトラーという人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた。この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。

 ヒトラーは人種主義、優生学、ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種 と主張していた。またニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。

 またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された(生きるに値しない命)。
 さらに1937年の官邸秘密会議や我が闘争で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた。

 ヒトラー率いるナチス党によるドイツの統治は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大した。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。幾度か企てられた暗殺計画を生き延びたが、最終的に連合国の反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。ヒトラー本人は包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したが、その後生存していたという説も存在している(アドルフ・ヒトラーの死)。愛車は、メルセデス・ベンツSSK。

3.教典
『我が闘争』

 ナチズムの聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたともいわれている。その内容は自らの半生と世界観を語った第1部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第2部「国民社会主義運動」の2つに分かれる。この中でヒトラーは「アーリア民族の人種的優越、東方における生存圏の獲得」を説いている。

 近代ドイツ最大の哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの思想を、「力こそが全て」というニーチェの書からの誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されることが多い。ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが窺える。しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている。またハンス・フランクには「結局私は物書きではなかった」「思想は書くことによって私から逃げ出してしまった」「もしも私が、1924年にやがて首相になることを知っていたら、私はあの本を書かなかっただろう」と語っている。

 1928年には、マックス・アマンに口述して執筆した第二の著作が完成した。生前のヒトラーは「ヒトラー第二の書(ドイツ語版)」(続・我が闘争)と呼ばれるこの本の公表を許さなかった。

 「現在のドイツでは『わが闘争』は民衆扇動罪による発禁本のリストの中に入っている」とよく誤解されるが、実際の理由は、著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにある。保護期間は2015年までであり、以降出版は自由になる。

4.教義・戒律
「世界観」
 首相就任後、アドルフ・ヒトラーは首相官邸において「この地球は『人種戦争の勝利者に贈られる持ち回りの優勝カップに過ぎない』」と語った。この言葉は世界を人種同士が主導権を握るために争う闘争状態ととらえていたことから来ている。「非アーリア人、有色人種、モンゴル人は、ボルシェヴィズムの下に、すでに全面的な戦いに立ち上がって」おり、ナチ党の政権獲得は「世界史上最も偉大な民族であるゲルマン人による人種革命」の開始に他ならなかった。

 このことはすでに『我が闘争』の中でこのように触れられている。「最も優れた人間がこの地上を獲得し、地球内外の諸領域で自由に活動できる」ようにするため、「遠い将来人類に生ずるであろう諸問題の克服のため、最高の人種だけが、全地球上のあらゆる手段と可能性に支持されて、支配民族たるべく招かれている」。

「人種・民族」
 ヒトラーが「ナチズムはもっぱら人種に関する諸認識から生まれた一つの民族的政治理論である」と評したように、人種はナチズムにおいて最も重要な問題の一つであった。ナチズムの思想において人種とは、肉体の外観だけではなく、言葉や習慣、心情にいたるまでの精神的性向も遺伝するものである。ゆえに人種は決して平等ではなく、中でも白色人種は「生まれながらの絶対的な支配者としての感情」があり、「他のすべての世界を支配する権利」を与えられていることは自明であった。

 その白色人種が構成するヨーロッパの各民族は、北方人種、地中海人種、ディナール人種、東方アルプス人種などの各人種が混血してできあがったものである。その各人種のうち、最も優れた精神的・肉体的性向を遺伝するのは「北方人種」であり、ドイツ民族にはその北方人種の構成要素が最も多いとされていた。すなわちドイツ民族とは、最も優れた人種の精神を受け継いだ「種と運命の同質性に立脚する」民族共同体である。このため「世界支配への参加の権利をドイツ民族より以上に有する民族は存在しない」、すなわち支配人種(en)と定義された。

 この民族思想は必ずしも純血主義とイコールではない。一定のドイツ的な人種と混血することで、その人々を「ドイツ化」することは可能であった。ヒトラーは1942年5月12日の談話で、人種的に優れたドイツ人部隊を劣等な異民族地に駐屯させると(部隊とその地の女性の間で私生児が生まれることにより)、その地の民族の血を「若返らせる」ことができると述べている。一方で劣等人種の血が優勢にならないように、その流入を防ぐことも必要であるとされた。

 この人種イデオロギーに基づき、ユダヤ人もユダヤ教徒を指すのではなく、「人種」と定義されている。これらの人種イデオロギーに決定的な影響を与えたのが人種学者ハンス・ギュンターの理論であり、ナチズムの人種理論は彼の定義を大きく外れるものではなかった。

「民族共同体」
 この民族共同体が第一次世界大戦で敗北し、惨めな境遇に追い込まれた最も根源的な問題は、「ドイツ民族の内面的堕落」にあった。その堕落をもたらしたのは「マルクス主義」と「民族の血の汚濁」である。団結していたドイツはマルクス主義によって深刻な分裂に追い込まれた。民主主義は分裂した状況にふさわしい政治原理であり、さらに国際主義や「自己保存及び闘争本能の衰退」、「人格的価値の軽視」をもたらした。それらによって「ドイツ的なるもの」は壊滅状態に追い込まれてしまったことが破局の原因であるとした。

 さらにドイツ民族は北方人種以外の劣等人種(Untermensch)、特にユダヤ人による「血の汚濁」を受けていることが重要な問題であった。これらの二つの問題を「治療」することがドイツ民族を再び「世界の支配者」たらしめえることであった。

 全権委任法成立の翌日、ナチ党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」は次のような論説を掲載した。
「ヒトラーはドイツ救済のために必要なことならば、いかなることでも行う権力を手にいれたのだ。消極的には、民族を破壊するマルクス主義者の暴力の根絶であり、積極的には、新しい民族共同体の建設である」。

 ナチ党の権力掌握後に行われた「強制的同一化」と呼ばれる、既存の秩序を解体・再編成する一連の措置は「新しい民族共同体」へと、社会と民族、そしてドイツ人個人の思想を国家社会主義運動と同一化させるものであった。

「指導者と指導部」
 民族共同体の一人一人は、民族全体に関わる問題を認識しえない。従って、民族最良の人物が民族にかわって民族全体の力を「適切な方法で、適切な場で、適切な時期に投入する」ことが必要であるとされた。この民族全体を導く人物こそが「指導者」である。指導者と、彼に指導される被指導者団が指導者に忠誠を誓い、積極的に協力する体制こそがあるべき「民族共同体」の姿であった。しかし指導者の意思は恣意的なものではなく、「民族の意思は指導者を通じて表現され、実現される」とされるように、民族の意思そのものとされた。こうした指導者の指導は無謬であり、絶対の服従が求められた。

「国家」
 ヒトラーは「我が闘争」において国家とは、「一つの手段である」とした。すなわち民族共同体を維持するための、そして指導者が民族を指導するための手段であった。同様に党も「一つの手段」であるとされ、党と国家の両者は指導者の下にあって、民族共同体の指導体制を構築するためのものであった。このため国民はドイツ民族とその近縁の血を持つ人種だけであり、政権獲得後にはユダヤ人やポーランド人移民の国籍が剥奪された。

 1934年8月の『国家元首に関する法律』によって、ドイツ国首相職と大統領職が合一されるとともに、「総統であるアドルフ・ヒトラー」に大統領の権能が委譲された。これにより、国家の上に指導者が立つ民族指導体制が確立した。

「育種と淘汰
 ヒトラーは「ヒトラー第二の書」において、民族を「より高等な(民族へと)品種改良すること」がナチズムの課題であり、政策であるとした。この考えに遺伝的に最も優れたもののみが結婚し、子孫を生産することが理想であるとされた。さらにナチズムではドイツ民族という種の維持のため、多産が求められた。これは当時のドイツ人口が減少していたことと、多数の子供が社会に出されることで、生き残るべき優れた者をその中から選抜できるようにする目的があった。

 また、ヒトラーは「最も価値ある能力の持ち主というものは、長子や第二子の間には含まれない」と考えていた。このため歴史上の有名人が長男や次男ではないことを示すキャンペーンも行われた。

 一方で弱者、民族の裏切り者、同性愛者や少年犯罪者、常習犯罪者、遺伝病者、精神病者などは「人格全体」もしくは肉体の「変質」を起こした種的変質者であるとされた。これらの質的変質者を「淘汰」することで、種としての共同体を汚染から救うべきであると考えられた。このためナチス刑法においては死刑の対象となる罪が、ヴァイマル時代の3から1944年には46以上に増加し、同性愛者、遺伝病者などには断種措置や堕胎が行われた。これらの優生学的思想は大量安楽死政策T4作戦につながることになる。

 これらの目的を達成するため、「ヒューマニズムは弱者の侍女」であり、「人間の残忍な破壊者」とされ、弱者に対する憐憫は害悪とされた。

「教育」
 ナチズムの理想とする教育は反主知主義と反個性主義に基づくものであった。ヒトラーは本能と意思が必要なものであるとし、教養はそれを邪魔するものと考えていた。このため教育においてはまず「肉体的訓練」と、ドイツ民族が最高の民族であり、弱者に対する憐憫にとらわれず他の民族を支配するという「闘争的世界観」が必要であるとされた。またそれを実現するための「自己犠牲」と「服従の精神」も要求された。

5.宗教行事・祭礼

6.宗教生活・礼拝方法

7.象徴(像・シンボル)
 
ナチ党は赤地の上の白円の中に黒のハーケンクロイツが入ったデザインを使用した。黒、白、赤は帝政時代の国旗に使用されていた色である。ヒトラーは、赤は社会的理念、白は国家主義的理念、ハーケンクロイツはアーリア人種の勝利のために戦う使命を表しているとした。またナチ党は円や背景のないハーケンクロイツも使用した。

 ナチの鉤十字には二種類が生じた。右回りのものと、その鏡像である。ナチ党は二種類を象徴的に区別しなかったが、右回りのものが一般的に使用された。鉤十字は通常45°回転して描かれた。ナチスが党章にハーケンクロイツを採用したことで、幸運のシンボルからナチスの象徴とみなされるようになった。



8.歴史
■前史
 ナチズムやファシズムの先駆とされるものには、フランスのアクション・フランセーズやピエール・ビエトリーの黄色社会主義、イギリスのヘンリー・ハインドマンの愛国的な国家社会主義、オーストリアの国家社会主義運動(en)や、ヨーロッパに根強い反ユダヤ主義などがある。

 またナチズムはドイツの伝統的な右派・保守思想の影響を強く受けたものであった。国家主義・官僚主義・軍国主義・反西欧主義の風潮はドイツ帝国時代から支配層と一般市民層の間に広く浸透していた。またヴァイマル共和政がドイツの伝統に基づかない臨時の国家であり、民主主義を西欧の思想として排斥する考えは右派を中心としたドイツ国民に深く根付いていた。このためナチスの主張する反民主主義・反議会主義・反国際主義・反平和主義・反社会主義・反合理主義に基づく主張は一般民衆、特に中産階級の間に広く浸透する事ができた。

 またアルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルック(英語版)は1923年の著書『第三帝国論(英語版)』において、民族共同体を破壊する自由主義への嫌悪、さらに政治指導者による独裁「指導者原理」による、ドイツ帝国の正統性を受け継ぐ「第三のライヒ(第三帝国)」の創設を唱えており、これらの用語はナチズムにおいて大いに利用された。
 東方生存圏等の思想においては全ドイツ連盟(de)のゲオルク・フォン・シェーネラーやハインリヒ・クラース(ドイツ語版)の影響も大きかった。

■ヒトラーの思想形成
 
アドルフ・ヒトラーは若い頃から読書家であり、多くの書物を読んだ。アルトゥル・ショーペンハウアーなどの著作を読み、さらに当時流行していた反ユダヤ主義の新聞「ドイツ民衆新聞」も読んでいた。また、カリスマ的な政治運動指導者であり、反ユダヤ主義を唱えていたカール・ルエーガーとゲオルク・フォン・シェーネラーの二人を運動の模範としてたたえ、「我が闘争」の中では「我が人生の師」としている。彼らに見られるように反ユダヤ主義は広く浸透しており、ヒトラーの思想の土壌となった。

 第一次世界大戦中にはヒトラーは国際主義の打破を訴える手紙を送っている。戦後には軍の非合法政治調査活動の仕事に就くことになるが、この時に政治学の教授の講義を受けた。後にナチ党の幹部となるゴットフリート・フェーダーも講師の一人であった。ヒトラーの思想の基礎はこのようにしてできあがっていった。1919年9月16日にはヒトラーは最初の政治的書簡を書いたが、反ユダヤ思想とともにフェーダーの影響によるユダヤ資本への攻撃思想が現れている。

■初期のナチ党
 ヒトラーが入党した1919年のドイツ労働者党(ナチ党の前身)は、小さな政治サークルに過ぎなかった。しかし党は右派組織トゥーレ協会や右翼保守派の全ドイツ連盟の支援と指導を受けていた。トゥーレ協会にはドイツ労働者党のメンバーでもあるディートリヒ・エッカートやアルフレート・ローゼンベルクのような理論家がおり、またルドルフ・ヘスやハンス・フランクのような後のナチ党幹部となる者もいた。第一議長カール・ハラーら保守派は「敵陣営の陰謀」を回避するために党を閉鎖的サークルにしておき、間接的な政治運動を行うほうが好ましいと考えていた。

 ヒトラーが頭角を現すと、1920年2月21日に新綱領の採択と党名の変更を可決した。この時に党名は「国家社会主義ドイツ労働者党」と決まったが、これはオーストリアに存在した、シェーネラー派の分派が母体のドイツ国家社会主義労働者党にならったものだった。トゥーレ協会の指導を受けようとする第一議長ハラーは排除され、アントン・ドレクスラーが議長となった。

 利子奴隷制の打破、反ユダヤ主義を謳った新綱領25カ条綱領の作成にはヒトラーとドレクスラーが当たったと考えられており、一部にはエッカートやフェーダーの主張も取り入れられていた。しかしこの頃のヒトラー及びナチ党の思想および主張は、全ドイツ連盟系の思想と大きく違っていなかった。
 1921年7月、ヒトラーは党の第一議長となり独裁権を手に入れた。この頃からエッカート、ヘスらはヒトラーを指導者と呼ぶようになった。この指導者の呼称は当時様々な団体において、カリスマ的な運動の指導者に対して広く用いられていた。しかし、かならずしも独裁権を持つものではなかった。

 ナチ党が勢力を拡大する中で、後にナチス左派の領袖となるグレゴール・シュトラッサーらが加入した。また、エアハルト海兵旅団を始めとするドイツ義勇軍(フライコール)の隊員が、党の半武装組織突撃隊へと流入した。

■政権奪取までのナチズム
 1923年のミュンヘン一揆の失敗により、ヒトラーはランツベルク要塞刑務所に収監された。獄中生活でヒトラーは多くの本を読み、思想をさらに固めていく事になる。ここで口述筆記によって完成した『我が闘争』は1925年に出版され、以降ナチズムは独自色を強めていく事になった。

 その頃、先に出獄したグレゴール・シュトラッサーと弟オットーが勢力を拡張し、社会主義的色彩の強い新綱領を策定しようとした。しかしこれは今まで党に献金してきた右派富裕層の離反につながるものであった。1926年2月14日、ヒトラーはこの動きを押さえるためバンベルク会議において25カ条綱領を不変の綱領と規定し、それを優越する指導者原理による独裁権を認めさせた。反発したオットーは7月4日に党から離脱し、革命的国家社会主義者闘争活動共同体(後の黒色戦線)を結成したが追随者はわずかであった。

 1928年頃、ヒトラーは新たな著書の執筆に当たったが、この本は結局出版されなかった。この本は「ヒトラー第二の書」と呼ばれている。一方で突撃隊は党幹部に対する批判を強め、1930年から1931年にかけて、ベルリンの突撃隊が親衛隊や党支部を襲撃する事件が起きた。ヒトラーはレームを召喚して慰撫に当たらせたが、レームの元で突撃隊は独自色を強めていくことになった。

■政権奪取後のナチズム
 
1933年1月30日にヒトラーが首相となると、ナチスはあらゆる手段を通じて国家のナチス化をすすめていった。この一連の措置は「強制的同一化」と呼ばれている。1934年には党内の大勢力である突撃隊幹部を「長いナイフの夜」によって粛清、以降国内で党の路線を公然と批判するものはなくなった。その後ヒムラー、ゲッベルス、ダレ、フリック、ローゼンベルクといった党の実力者たちはそれぞれの権力が及ぶ範囲で自らのナチズムを推進していった。しかし彼らの思想は権力を失うと影響力も無くなり、ナチズム思想に決定的な影響を与える事はできなかった。

 1941年に独ソ戦が開始されると、ナチズムの思想に基づく東方生存圏の構築が行われ、多くの死者が出た。戦局が悪化するとこれらの取り組みは中止され、ドイツの降伏とともに、公式イデオロギーとしてのナチズムの歴史は終わった。

■現在
 第二次世界大戦終結後まもない1945年9月10日、ナチ党はドイツを占領した連合国管理理事会によって禁止された。連合国はナチ党とナチズムが戦争を引き起こしたと考え、ナチ党指導部の追放、思想の追放を行った。これらの動きは「非ナチ化」と呼ばれる。ニュルンベルク裁判では、ナチス党指導部、親衛隊、ゲシュタポの3組織が「犯罪的な組織」と認定された。

 ナチズムは現在のドイツ国内では非合法化され、現在の同党の支持者はネオナチと呼ばれドイツ国内および外国で活動しているが、一部には本来のナチズムから逸脱する傾向を含むことから、別の理念に基いた活動と見なされるケースもある。

9.宗派

10.その他
「東方生存圏」
 ヒトラーは我が闘争以来一貫して東ヨーロッパ地域の獲得と、ドイツ民族の移民を主張しており、独ソ戦の動機の一つとされている。移民が行われる東方生存圏にいるポーランド人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人、チェコ人はそれぞれドイツ民族との人種的親疎によって定められた割合に基づき、シベリアへの追放か、同化・使役としての対象とされるかが決められた。

 支配下に置かれた劣等民族に対しては、人口の削減と徹底的な文盲化が望ましいとされた。優秀民族には推奨されない避妊を推奨し、種痘等の予防的医学は有害であるという迷信を広めることによって人口を削減し、数学等の高等教育を行わないことで、彼らがドイツ人にかわる「支配者」としての観念を持たせない事を目標とした。

「反ユダヤ主義」
 ユダヤ人は「最低の人種」、「悪魔の民」、「反人間」、「非人間」、「他の人種、国家に巣くう寄生虫」であり、アーリア人種とは正反対の存在であるとされた。しかしこれはユダヤ人が無能力であることを指すのではなく、マルクシズム、ボルシェヴィズム、資本主義、自由主義、平等主義、民主主義など「ドイツ的でないもの」の全ての創造者であり、第一次世界大戦の張本人で大戦後のドイツの混乱を生み出した黒幕、つまりドイツの徹底的破壊を狙う大扇動者であるとされた。世界支配をめぐる民族の戦いはつまるところドイツ民族とユダヤ人の戦いであり、「アーリア人の勝利か、もしくはその絶滅とユダヤ人の勝利」の二つの可能性しかないとされた。

 ユダヤ人の戦術は民族の特性を雑種化して、最も価値ある階級の人種的価値を低下させることで、民族の指導者や支配層を根絶する「血のボリシェヴィキ化」であるとされた。このためユダヤ人に対する闘争は他の民族との闘争とは異なり、解決方法はウィルスである「ユダヤ人を除去する」ことのみであった。

「ホロコースト」
 1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。

 政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、クリストファー・ブロウニング(英語版)らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャート (en)、ハンス・モムゼン (en)、ラウル・ヒルバーグらの説がある。

 しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議 (en) においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている。内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている。

「健康政策」
 ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙を肺癌と結び付けた。

 「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙・禁酒運動を「ナチズムを彷彿させるもの」としてタブー視する傾向にある。

「演説」
 ヒトラーは「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と演説の力を極めて高く評価していた。 ヒトラーは若年の頃から演説をする癖を持っており、親友であったクビツェクもその演説をたびたび聴かされている。

 第一次世界大戦直後に軍の情報員として働いていたころから初めて多くの人々の前で演説することになり、大きな喝采を得た。ヒトラーは「私は演説することができた」と回顧している。ナチ党の指導者になってからも「大衆を興奮させ、感激させる術を心得ており、」「俗物の大きなうなり声と金切り声で大衆を魅了した」。またヒトラー自身も『我が闘争』において、「大学教授に与える印象によってではなく、民衆に及ぼす効果」によって演説の価値が量られるとしている。

 ヒトラーの演説は一見その場のアドリブのように見えるが、実際には詳細なメモ書きによって構成されていた。一見変わった言い方をしている場合にも、大衆の興味をひく意図があってあえて変更していることもあった。ミュンヘン一揆後にはバイエルン州などによって演説を禁じられ、アドルフ・ヴァーグナーに演説を代読させることもあった。対比法、平行法を駆使し、修辞的な面でにもヒトラーの演説は1925年頃にすでに完成の域に達していた。

 しかしヒトラーの発声術は独学によるものであり、1932年頃には声帯を損傷する恐れもでてきた。そこでヒトラーはオペラ歌手パウル・デフリーント(de:Paul Devrient)の指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた。デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、同じ内容の演説を繰り返すことに辟易していた様を記録に残している。

「大衆心理をつかむ」
 ウィーンの造形美術大学の受験に二度失敗し、失意の生活を送っていた若者が、第一次世界大戦でドイツ軍に入隊して戦功を上げ、戦争こそが人間の理想状態である、として政治活動を始めました。アドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)です。
 ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)結成から13年後、彼はドイツ首相の座に就きました。そして隣国ポーランドに侵攻して第二次世界大戦に突入、600万人ともいわれるユダヤ人を虐殺したのです。

 なぜ、このような男が、当時世界で最も民主的といわれたドイツで独裁権力を握ることができたのでしょうか。ナチス草創期、ミュンヘン一撲に失敗して投獄されていた時に書かれた「わが闘争」で、彼はその戦略を明確にしていました。
 大衆とは女性のようなもので、弱い男を支配するよりも、強い男に服従することを好むのだ。しかもその強さは、敵を徹底的に攻撃し、敵の正しさをほんの少しでも認めないという姿勢によって印象付けられるのだ…。

 ひどい女性蔑視ですが、大衆心理の一面を突いていました。だからこそ、「諸悪の根源であるユダヤ人と徹底的に戦う」というヒトラーの自信満々の大きなうそに、人々はいとも簡単にだまされていったのです。 (琉球新報 2006-11-17)

※『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしました。


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