仏 教

4.教義・戒律
「世界観」
 仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるインドの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。
 仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。開祖の釈迦の思想には偶像崇拝の概念は無かった。

■輪廻転生・六道・仏教と神
 仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

 また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。

 仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約 をするという考えも存在しない。
 ただしこれらの内容は、民間信仰においては様子が一変していることが多く、それが仏教を分かりづらくする原因の一つとなっている。

「因果論」
 仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本的考え方にすえている。生命の行為・行動(体、言葉、心でなす三つの行為)にはその結果である果報が生じるとする業論があり、果報の内容如何により人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧める。

 また個々の生に対しては業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言う。
 輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。

 人の世は苦しみに満ち溢れている。そして、あらゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦しみにも原因が存在する。したがって、苦しみの原因を取り除けば人は苦しみから抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論である。
 また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。

 輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。

■縁起
 世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方。「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、「因」は結果を生じさせる直接の原因、「縁」はそれを助ける外的な条件のことである。 以下因果に基づき苦のメカニズムを整理された十二支縁起を示す。

1.無明(根源的無知)    2.行(身体的行為)   3.識(認識作用・意識)   4.名色(心身・物質的なもの)
5.六処(感覚)       6.触(対象との接触)  7.受(触による快不快)   8.愛(快楽の欲求)
9.取(執着すること)    10.有(存在・生存)   11.生(出生)        12.老死(老いと死)

 これはなぜ「生老病死」という苦のもとで生きているのかの由来を示すと同時に、「無明」という条件を破壊することにより「生老病死」がなくなるという涅槃に至る因果を示している。

■空
 仏教における空とは、固定的実体もしくは「我」のないことや、実体性を欠いていることを意味する。空は時代や学派によっていくつかの概念にまとめられるが、その根本的な部分ではほぼ変わらず、いずれも「縁起を成立せしめるための基礎状態」を指している。

 この概念は初期仏教以来用いられてきたものではあるものの、とりわけ大乗仏教初期の『般若経』やナーガールジュナ(龍樹)の『中論』及びその後継である中観派によって、特に強調・称揚・発展されてきた概念であり、そこに端を発する中国仏教宗派の三論宗を「空宗」と別称することからも分かるように、一般的にはその文脈との関連で用いられることが多い。
 原語はサンスクリットの形容詞「シューニャ」、名詞形は「シューニャター」でしばしば「空性」と漢訳される。

「苦、その原因と解決法」
 仏教では生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)とする。そしてそれを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行の実践を奨励する(八正道)。

 このように仏教では、救いは超越的存在(例えば神)の力によるものではなく、個々人の実践によるものと説く。すなわち、釈迦の実体験を最大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それを実践することを勧める。
 なお、釈迦は現代の宗教が説くような「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切しておらず、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決を重視していた。

 即ち、苦悩は執着によって起きるということを解明し、それらは八正道を実践することによって解決に至るという極めて実践的な教えを提示することだった

■四苦八苦
1.生(しょう)=生きる苦しみ。     2.老(ろう)=老いていく苦しみ。
3.病(びょう)=病にかかる苦しみ。   4.死(し)=死ぬという苦しみ。
5.愛別離苦(あいべつりく)=愛するものと別れる苦しみ。
6.怨憎会苦(おんぞうえく)=怨み憎む者と会う苦しみ。
7.求不得苦(ぐふとっく)=求めても得られない苦しみ。
8.五蘊盛苦(ごうんじょうく)=感覚・感情のこだわりの苦しみ。

■四諦
 釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つ。
苦諦(くたい)=この世は生老病死などの苦に満ちている(一切苦の認識)
集諦(じつたい)=苦の原因が執着にある(苦の原因の追及) 
滅諦(めつたい)=執着を断ち切れば静かな境地が訪れる(苦滅尽の境地)
道諦(どうたい)=苦滅に至る正しい道(修業方法……八正道)

■三法印
 仏教における3つの根本思想。三法印の思想は古層仏典の法句経ですでに現れ、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」が原型と考えられる。 大乗では「一切皆苦」の代わりに涅槃寂静をこれに数えることが一般的である。これに再度「一切皆苦」を加えることによって四法印とする場合もある。

1.諸行無常 − 一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある
2.諸法無我 − 一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない
3.涅槃寂静 − 苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である
4.一切皆苦 − 一切の形成されたものは、苦しみである

■中道
 中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、「有る」とか「無い」という見解をというが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。

(苦楽中道)
 たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。
釈迦は、6年間(一説には7年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを中道を覚ったという。釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(=仏陀)となった。

 釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際にも(初転法輪)、この「苦楽中道」を(四諦・八正道に先んじて)真っ先に述べたことが、パーリ語経典相応部の経典などに描かれている。

「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
 比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」
 
 初期仏教教団において、釈迦の直弟子の一人であった提婆達多は、僧団の戒律をより禁欲的・苦行的性格が強いものへと変更するよう釈迦に求めた(「五事の戒律」)が、釈迦はこれを拒否した。そのため提婆達多は独自の教団を創設し、仏教教団を出て行くことになった

「仏教の存在論」
 仏教そのものが存在を説明するものとなっている。変化しない実体を一切認めない、とされる。また、仏教は無我論および無常論であるとする人もおり、そういう人は、仏教はすべての生命について魂や神といった本体を認めないとする。そうではなくて釈迦が説いたのは「無我」ではなくて「非我」である(真実の我ではない、と説いたのだ)とする人もいる。

 衆生(生命・生きとし生けるもの)と生命でない物質との境は、ある存在が識(認識する働き)を持つか否かで区別される。また物質にも不変の実体を認めず、物理現象も無常、すなわち変化の連続であるとの認識に立つ。物質にも精神にも普遍の実体および本体がないことについて、「行為はあるが行為者はいない」などと説明されている。

 人間存在の構成要素を五蘊(色・受・想・行・識)に分ける。これは身体と4種類の心理機能のことで、精神と物質の二つで名色とも言う。猶、日本の仏教各宗派には魂の存在を肯定する宗派もあれば、肯定も否定もしない宗派もあれば、否定的な宗派もあるが、本来、釈迦は霊魂(aatman) を説くことはせず、逆に、諸法無我(すべてのものごとは我ならざるもの(anaatman)である)として、いかなる場合にも「我」すなわち「霊魂」を認めることはなかった。

 仏教では、根本教義において一切魂について説かず、「霊魂が存在するか?」という質問については一切答えず、直接的に「霊魂は存在しない」とのべず、「無我(我ならざるもの)」について説くことによって間接的に我の不在を説くだけだった。やがて後代になるといつのまにか「我ならざるもの」でもなく、「霊魂は存在しない」と積極的に主張する学派も出てきた。

■無常、苦、無我
 「無常」は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

 「苦」とは、サンスクリット語の「ドウクハ」に由来する。「ドウクハ」は「豆法」と音写され、苦と訳された。
「ドウクハ」の「ドウ」は、「悪い」という意味、「クハ」は「運命」「状態」の意味であるから、苦とは、もともと悪い状態、悪い運命というような意味をもっていたが、一般に身心を逼悩することをいうとされる。すなわち、精神と肉体とが悩みに逼迫されている状態である。このうち、精神の苦について、憂・愁・嫉妬などをあげている。また、肉体的な苦は種々の病などであるという。

 「無我」は、仏教用語で「我」に対する否定を表し、文字通りには「我ならざるもの」という意味である。「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、どこにも我を見出すことはなく、必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので、非我と無我は同じことを指しており、非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる。


【実践】(仏道修行)

「戒定慧」(かいじょうえ)
 戒律によって心を惑わす悪行為から離れ、禅定により心をコントロールし鎮め、智慧を定めることこの世の真理を見極めることで、心に平穏をもたらすこと(涅槃)を目指す。

■三学
 三学(さんがく)とは、仏道を修行する者がかならず修めるべき基本的な修行項目をいう。具体的には、戒学・定学・慧学の3つを指す。
 戒学(かいがく)……戒律のことで、「戒禁」(かいごん)ともいい、身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善を修すること。律蔵に相当。
 定学(じょうがく)……禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。経蔵に相当。
 慧学(えがく)……智慧を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めること。論蔵に相当。

 三学それぞれの関係は、戒をまもり生活を正すことによって定を助け、禅定にある心によって智慧を発し、智慧は真実を正しく観察(かんざつ)することができ、それによって真理をさとり、仏道が完成される。このように、戒定慧の三学は不即不離であり、この三学の学修をとおして仏教は体現される。

「八正道」(はっしょうどう)
 釈迦の説いた悟りに至るための実践手段。

1.正見(しょうけん)=自己中心的な見方をせず、偏見をもたない。
2.正思惟(しょうしゆい)=自己本位にかたよらず、真理に照らし物事を考える。
3.正語(しょうご)=嘘や悪口を言わないこと。真理に合った言葉使いをする。
4.正業(しょうごう)=本能に任せるままの生活ではなく、仏の戒めにかなった行いをする。
5.正命(しょうみょう)=人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業につかない。
6.正精進(しょうしょうじん)=使命や目的に対して、ひたむきに実行する。
7.正念(しょうねん)=物事の実相を見極め、心をつねに真理の方向へ向ける。
8.正定(しょうじょう)=決心が外的要因や変化に迷わされない。

「戒律」
 「戒」(シーラ)とは、仏教徒が守るべき、自分を律する内面的な道徳規範である。本来の仏教の伝統では、在家信徒は五戒・八齋戒、見習い出家者(沙弥・沙弥尼)は十戒、出家修行者(比丘・比丘尼)は波羅提木叉(別解脱戒、具足戒)を遵守した。

 大乗仏教においては、教派・宗派によってその扱いは様々で、律宗やチベット仏教のように伝統的な戒律を継承する場合もあれば、他の宗派のように、菩薩戒(三聚浄戒・十重禁戒)や、密教の三昧耶戒などを用いたりする場合もある。戒を守ること(「持戒」)は、大乗仏教の菩薩においては、六波羅蜜のひとつ「持戒波羅蜜」である。なお、仏教における大前提とも言える仏・法・僧の三宝への帰依を、「三帰依戒」などと、広い意味での戒と捉える考え方もある。

 「律」(ヴィナヤ)とは、僧侶(比丘・比丘尼)のみに課される戒である波羅提木叉(別解脱戒、具足戒)のことであり、僧団で守るべき集団規則である。戒の中でも波羅夷罪と呼ばれる四つの罪を破った場合には僧団を追放され、再び僧侶となることはできない。また、僧残罪では、僧団を追放されるということはないが、一定期間、僧としての資格を剥奪されるなど、罪により罰則の軽重が異なる。
 上座部仏教では227戒、大乗仏教では用いる律によってその数が異なるが、四分律の場合、比丘は250戒、比丘尼は350戒の戒がある。

■五戒
 「五戒」(ごかい)とは、仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のことで、より一般的には「在家の五戒」などと呼ばれる。

1.不殺生戒(ふせっしょうかい)=生き物を殺してはいけない。
2.不偸盗戒(ふちゅうとうかい)=他人のものを盗んではいけない。
3.不邪淫戒(ふじゃいんかい)=自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない。(出家僧には「不淫戒」:あらゆる性行為を行わない)
4.不妄語戒(ふもうごかい)=嘘をついてはいけない。
5.不飲酒戒(ふおんじゅかい)=酒を飲んではいけない。

■八斎戒(はっさいかい)
 五戒に3つの戒を加えたもので、
6.歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない。
7.天蓋付きで足の高いベッドに寝ない。
8.正午以降は食事をしない。

「三宝への帰依」
 「三宝」(さんぽう、さんぼう)とは、仏教における3つの宝物を指し、具体的には仏・法・僧(僧伽)のこと。この三宝に帰依することで仏教徒とされる。3つという数については、3を聖数とする習俗や信仰とのかかわりも指摘されている。
 「帰依」(きえ)とは、仏教用語において、拠り所にするという意味。「三宝」に「帰依」、つまり仏教徒になるという意味で最も多く使われる。

「波羅蜜」(はらみつ)
 波羅蜜(はらみつ)、玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた、はらみった)。仏教で最も深奥の修行(彼岸行)とされる。
 『般若経』では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、あるいは『華厳経』などではこれに4種を加え10種(十波羅蜜)を数える。『摩訶般若波羅蜜経』は九十一波羅蜜を列挙するが、全体としての徳目は六波羅蜜である。

 中国や日本の仏教界の伝統的な解釈では、これを「p_ram」(彼岸に)+「ita」(到った)という過去分詞の女性形と読み、此岸(迷い)から彼岸(覚り)に到る行と解するのが通例である。

■六波羅蜜
 六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ)とは、甚深法界の六つの彼岸行のこと。「六度(ろくど)彼岸」とも呼ばれる。

1.布施波羅蜜 − 檀那(だんな、ダーナ)は、分け与えること。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
2.持戒波羅蜜 − 尸羅(しら、シーラ)は、戒律を守ること。尸は屍に通じる。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
3.忍辱波羅蜜 − せん提(せんだい、クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
4.精進波羅蜜 − 毘梨耶(びりや、ヴィーリヤ)は、努力すること。
5.禅定波羅蜜 − 禅那(ぜんな、ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
6.智慧波羅蜜 − 般若(はんにゃ、プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。

 龍樹は『宝行王正論』においてこの6項目を
布施・持戒 −「利他」
忍辱・精進 −「自利」
禅定・智慧 −「解脱」
 というカテゴリーに分けて解説している。龍樹によれば、釈迦の教えとは要約すれば「自利・利他・解脱」の三つに尽きるため、阿含経に根拠を持たない大乗独自の「六波羅蜜」も仏説であるという。

■十波羅蜜
 十波羅蜜(じっぱらみつ)は、六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜(六波羅蜜の般若波羅蜜より派生した4つの波羅蜜)を加えたもの。唯識論ではこの十波羅蜜を立てて十勝行と称す。華厳教学などでは、菩薩の五十二位の中の十行のことともいわれる。また菩薩は十地において正しくこの十波羅蜜を順次に習得するという。

1.方便波羅蜜 − 烏波野(うはや、ウパーヤ、日本語訳:方便)は、巧みな手段で衆生を教導し、益すること。六波羅蜜の行によって集めたる善根を有情に廻向せしめて彼と共に無上菩提を求むる廻向方便善巧、一切有情を済度する抜済方便善巧の2種類を修行する。
2.願波羅蜜 − 波羅尼陀那(はらにだな、プラニダーナ、日本語訳:願)は、(彼岸すなわち仏の理想世界に到達せんと立願すること。今日ではこれらすべての修行を完成せんと願う希望をいう。求菩提願・利他楽顔の2つを修行する。
3.力波羅蜜 − 波羅(はら、バラ、日本語訳:力)は、二義あり、一義に一切の異論及び諸魔衆の壊すことなきをいい、また一義に十力の行のうち、思擇力・修習力の2つを修行する。
4.智波羅蜜 − 智(ち、ジュニャーナ、日本語訳:智)は、万法の実相を如実に了知する智慧は生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に到る船筏の如く、受用法楽智・成熟有情智の2つを修行する。

「止観・瞑想」
 釈迦(ゴータマシッダールダ)は瞑想によって悟りを開いたと言われている。

■止観
 「止観」(しかん)とは仏教の瞑想のことである。サンスクリット語から「奢摩他(サマタ)・毘鉢舎那(ビバシャナ)」と音訳されることもある。一般的な意味としては「禅」、あるいは坐禅(座って行う瞑想)と同義である。ただし、明確には禅という用語は梵語の音写である禅那(ゼンナ)を縮めたものであり定(じょう)・静慮と訳され、仏教での位置づけと一般での理解とはずれが存在する。

 仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。また観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。

 止観の語は、特に天台宗において多用される。天台智ぎの『天台小止観』や『摩訶止観』といった書物は、坐禅の詳細なマニュアルであり、天台宗だけでなく禅宗においても参照される。

■瞑想
 仏教の瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられる場合がある。例えば、大乗仏教における仏教哲学・仏教心理学では意識は八識に分類され、その中には末那識や阿頼耶識と呼ばれる層があり、仏教の瞑想法はそこへ到達するための方法と言われている。末那識、阿頼耶識は、近代になって西洋心理学で深層心理と呼ばれるようになったものに近いと言われている。

 一方、上座部仏教においては、瞑想修行の進展に伴い心の変化を九段階に体系化(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)しており、第一禅定以上の集中力において仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うことで解脱が可能と言われている。
 ヒンドゥー教における瞑想法は、真我や神との合一体験を目的とした瞑想が主流である。仏教やヒンドゥー教における瞑想法の究極の到達点は一般的には輪廻転生からの解脱であるが、実践者の悟りや解脱についての認識の違いが、宗教・宗派を区別する根拠の一つとなった。



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