仏 教

9.歴史
「インドの仏教」
 仏滅後、約100年間を原始仏教といいます。前250年頃、上座部と大衆部に大きく分裂しました。マウリア王朝(ガンジス河流域)のアショーカ王(前268〜232在位)の保護によって、仏教は著しい発展をとげましたが、教団は国に保護され、教義の研究に専念したため、仏教は活力を失っていきました。前1世紀頃には上座部11部、大衆部9部の部派仏教が成立しました。

 前1世紀以降に大乗仏教が起り、それまでの仏教を小乗と批判して改革運動に立ち上がりました。部派仏教は出家者中心で、自己の完成をめざしていましたが、大乗仏教はひろく人間の救済をめざしました。3世紀から5世紀に最盛期を迎えます。

 釈迦の教えを信じ、人々を救おうとする人は誰でも菩薩であるとし、さまざまな菩薩への信仰が盛んになり、多くの大乗経典が生まれました。また、中論(ナーガールジュナ、空の立場を展開する)、唯識説(アサンガ、バスバンドゥ兄弟、万物は精神作用によって生じた仮象にすぎない)、如来蔵の思想(すべてに仏陀となる素質が宿っている)が生まれました。

 4世紀、グプタ王朝がインドを統一すると、バラモン教が復興し、土着の信仰を取り入れヒンズー教となりました。また、476年に西ローマ帝国が滅び、東西の貿易が衰え、商人や手工業者に支えられていた仏教は次第に衰えました。この頃から仏教は、呪術や民間信仰を取り入れ、6世紀から7世紀にかけて密教が成立しました。

 8世紀にイスラム教が侵入し、インドの王たちはヒンズー教を保護して対抗しました。12世紀末、インドでは仏教はほとんど滅びてしまいました。
 東南アジアには上座部仏教が伝えられました。中央アジアには大乗仏教が伝えられましたが、9世紀にはイスラム教に制圧されました。チベットには密教が伝えられ、土着のボン教と結び付いてラマ教が成立しました。

「中国の仏教」
 仏教が中国に伝わったのは、シルクロードが盛んになる紀元1世紀頃。釈迦の入滅から500年ほど後のことになります。これほど時間がかかったのは、中国では儒教(孔子の思想)や道教(中国の民俗宗教)が盛んで、外来の思想を受け入れる余地がありませんでした。はじめ道家の思想と結び付いて受け入れられました。

 4世紀に入ると儒教も衰え、北方から侵入した騎馬民族が仏教を採用したこともあり、仏教が急速に広まりました。5世紀はじめに、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって仏典が翻訳され、中国仏教の基礎が築かれました。
 玄奘は629年に唐の長安を出発し、インドから多くの仏典を持ち帰りました。彼は経典の翻訳に全生涯をかけて取り組み、こうして7世紀後半から9世紀にかけての中国仏教興隆の道を開きました。

 隋の時代には、天台宗、三論宗、成実宗が成立しました。天台宗の智巍(ちぎ)は法華経を中心として仏教を体系化しました。隋から唐の時代に末法思想がひろがり、三階教、浄土教が発展しました。さらに唐の時代に華厳教、律宗が開かれ、中国独自の宗派として禅宗が生まれました。7世紀なかばには、密教が伝えられました。
 宋の時代(960〜)には、特に禅宗の発展がめざましく、臨済宗と曹洞宗が成立しました。明(1368〜)、清(1616〜)の時代は、仏教が統制され、活力を失っていきました。

「日本の仏教」
 538年、百済から仏像、仏具などがもたらされ、聖徳太子(574〜622)は仏教を奨励しました。奈良時代には、国分寺が造られ、仏教国家の体制が整えられました。平安時代には天台宗(最澄)、真言宗(空海)が栄えました。
 11世紀に入ると末法思想の影響から、浄土教が広がりました。鎌倉時代には、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、法華宗(日蓮)が開かれました。

 室町時代には、幕府の保護を受けて臨済宗が発展しました。江戸時代には仏教が厳しく統制され、活力を失っていきました。
 明治維新後は、国家神道のもとで仏教各宗への統制が強まりましたが、特に法華・日蓮系の新宗教が次々に生まれました。

現代の仏教
 現在の仏教は、かつて多くの仏教国が栄えたシルクロードが単なる遺跡を残すのみとなったことに象徴されるように、大部分の仏教国は滅亡し、世界三大宗教の一つでありながら仏教を主要な宗教にしている国は少ない。

 7世紀に唐の義浄が訪れた時点ですでに発祥国のインドでは仏教が廃れており、東南アジアの大部分はヒンドゥー教、次いでイスラム教へと移行し、東アジアでは、中国・北朝鮮・モンゴル国では共産化によって宗教が弾圧されて衰退している。ただしモンゴルでは民主化によりチベット仏教が復権しているほか、中国では沿海部を中心に復興の動きもみられる。

 韓国は儒教を尊重した李氏朝鮮による激しい弾圧により、寺院は山間部に残るのみとなった。大韓民国成立後はキリスト教の勢力拡大が著しく、キリスト教徒による排仏運動が社会問題になっている。ベトナムでは共産党政権により宗教の冷遇はされたものの、仏教がベトナム戦争勝利に大きな役割を果たしたこともあって組織的な弾圧を受けることなく、一定の地位を保っている。

 仏教が社会において主要な位置を保っているのは、仏教を国教または国教に準じた地位としているタイ・スリランカ・カンボジア・ラオス・ブータン、土着の信仰との混在・習合が顕著である日本・台湾・ベトナムなどである。

 しかし他の国では、近年でもアフガニスタンでタリバーンによる石窟爆破などがあり、中国(特にチベット自治区)・ミャンマー・北朝鮮では政権によって、韓国ではキリスト教徒によって、仏教に対する圧迫が続いている。

 しかし発祥国のインドにおいては、アンベードガルにより、1927年から1934年にかけて仏教復興及び反カースト制度運動が起こり、20万あるいは50万人の民衆が仏教徒へと改宗した。また近年においてもアンベードカルの遺志を継ぐ日本人僧・佐々井秀嶺により運動が続けられており、毎年10月には大改宗式を行っているほか、ブッダガヤの大菩提寺の奪還運動や世界遺産への登録、仏教遺跡の発掘なども行われるなど、本格的な仏教復興の機運を見せている。



■原始仏教
 仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦が提唱し、発生した(初期仏教)。他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない。当時のインドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている。

 発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、とくに初期経典からそのような方向性を読み取れる。当時の世界的な時代背景は、都市国家がある程度の成熟をみて社会不安が増大し、従来のアニミズム的、または民族的な伝統宗教では解決できない問題が多くなった時期であろうと考えられており、医学、農業、経済などが急速に合理的な方向へと発達し始めた時期とも一致している。

 釈迦が死亡(仏滅)して後、直ぐに出家者集団(僧伽、サンガ)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。これは「三蔵の結集(さんぞうのけちじゅう)」と呼ばれ、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。仏典はこの時には口誦によって伝承され、後に文字化される。釈迦の説いた法話を経・律・論と三つに大きく分類し、それぞれ心に印しているものを持ち寄り、仏教聖典の編纂会議を行った。これが第一回の三蔵結集である。

■部派仏教
 仏滅後100年頃、段々と釈迦の説いた教えの解釈に、色々の異見が生じて岐れるようになってきた。その為に釈迦の説法の地であるヴァイシャリーで、第二回の三蔵の結集を行い、釈迦の教えを再検討する作業に入った。この時、僧伽は教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂する(根本分裂)。時代とともに、この二派はさらに多くの部派に分裂する。この時代の仏教を部派仏教と呼ぶ。

 部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)。
 それから又しばらくして、紀元前約3世紀の半ば頃に、仏教史上名高いアショーカ王が第三回の結集をパータリプトラ城(華氏城)で行った。アショーカ王は西方のヘレニズム諸国や東方の東南アジア諸国、北方の中央アジア諸国に伝道師を派遣している。この頃に文字が使われ出し、今までの口伝を基に出来たのが文字で書かれた経典・典籍である。

 その文字は北インドに広まったのがサンスクリット文字、南の方に発達したのがパーリ語である。パーリ語はセイロンを中心としている。そこで仏典がサンスクリットで書かれたものとパーリ語で書かれたものと二種類出てきた。因みに近来、このサンスクリットの頃の仏典を日本語訳する作業を行った人物に、中村元がいる。

■大乗仏教
 紀元前後、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)。

 7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教と深い関係を持った密教が盛んになった。この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを仏を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。

 8世紀よりチベットは僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入した(チベット仏教)。その後チベット人僧侶の布教によって、チベット仏教はモンゴルや南シベリアにまで拡大していった。

 仏教の教えは、インドにおいては段階を踏んで発展したが、近隣諸国においては、それらの全体をまとめて仏説として受け取ることとなった。中国および中国経由で仏教を導入した諸国においては、教相判釈により仏の極意の所在を特定の教典に求めて所依としたり、特定の行(禅、密教など)のみを実践するという方向が指向されたのに対し、チベット仏教では初期仏教から密教にいたる様々な教えを一つの体系のもとに統合するという方向が指向された。

紀元前5世紀頃 − インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
紀元前3世紀 − セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
紀元後1世紀 − 中国に伝わる(中国の仏教)
4世紀 − 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
538年(552年) − 日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半 − チベットに伝わる(チベット仏教)
11世紀 − ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
13世紀 − タイに伝わる(東南アジアの仏教)
13〜16世紀 − モンゴルに伝わる(チベット仏教)
17世紀 − カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
18世紀 − 南シベリアに伝わる(チベット仏教)



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