イスラム教

2.教祖・重要人物
「ムハンマド」(マホメット 570〜632)
■誕生
 ムハンマドはアラビア半島の商業都市メッカで、クライシュ族のハーシム家に生まれた。父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、母アーミナもムハンマドが幼い頃に亡くなった。ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと伯父アブー=ターリブの庇護により成長するが、貧しく苦しい少年時代をおくった。

■青年時代
隊商交易 成長後は一族の者たちと同じように商人となり、シリアへの隊商交易に従事した。

結婚 25歳の頃、クライシュ族出身の富裕な女商人ハディージャ・ビント・フワイリドにその温和で誠実な人柄を認められ、15歳年長の未亡人であり彼の雇い主でもあった彼女と結婚した。ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけたが、男子は2人とも夭逝したという。


誕生

婚礼

ムハンマド

ハディージャ

■預言者
ヒラー山 結婚によって生活の安定をえたムハンマドは、やがて近くのヒラー山の洞窟に毎年一定期間こもって瞑想した。

大天使ジブリール 610年のラマダーン月(第9の月)(西暦610年8月19日)に、40歳を越えたムハンマドがヒラー山の洞窟で、瞑想後に仮眠をしていると、突然大音声によって呼び覚まされた。それがアラーによる大天使ジブリール(ガブリエル)を通じてムハンマドにくだされた最初の啓示であった。

啓示 不意の訪問者は、突然アラビア語で「読め!」と叫んだ。読み書きの出来なかった彼はとっさに「私は読むことが出来ません!」と答えた。この問答が三度繰り返された後、アラーは読むべき内容を以下のように言った。
 「読め、創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。
  読め、あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である」
    (『コーラン』第96章1−5節)
 その後も啓示は次々とムハンマドに下された。

最初の信徒 ムハンマドはこれが神の言葉であることを信じることが出来なかった。恐れおののく彼を励まし、断続的にくだされる言葉は神の啓示に他ならないと信じたのは妻ハディージャだった。彼女の励ましと理解がなければ、ムハンマドが神の使徒として自覚することはなかったかもしれない。

預言者の自覚 ハディージャはムハンマドを励まし、彼女の従兄弟でネストリウス派のキリスト教修道僧だったワラカ・イブン・ナウファルに相談したところ、ナウファルは、ムハンマドのように神の声を聞いた者は、昔から何人かおり、イブラーヒーム(アブラハム)、ヌーフ(ノア)、ムーサー(モーセ)、イーサー(イエス)など「預言者」と呼ばれる人びとは、同様の経験をしたことを教えた。


ヒラー山

啓示




■唯一の神アラー
 ムハンマドは、唯一の神アラーのみを認め、アラーの前では婦人、落伍者、貧民、奴隷すらも平等であると主張した。

■布教活動
メッカでの布教 613年頃から、ムハンマドは公然とメッカの人々に教えを説き始めた。従来の偶像崇拝、部族主義、貧富の格差やモラルの低下などを批判したムハンマドは、メッカの既存の勢力と摩擦を生んだ。

妻と伯父の死 伯父アブー=ターリブはハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、619年頃亡くなり、同じ頃、妻ハディージャも亡くなったので、ムハンマドは精神的・政治的支柱を失った。

夜の旅と昇天の旅 夜の旅とは、一夜のうちにムハンマドがメッカからエルサレムへ往復したことであり、昇天の旅とは、その時エルサレムにおいて、かつてのソロモンの神殿から七層の天に昇り、諸預言者たちに出会い、ついにはアラーの御許に達するというものだった。重大な危機を迎え、イスラームが新奇な教えではなく、人類の祖先アダム、アブラハムらから連綿と続く一神教の系譜に位置するとの再確認を行う宗教的体験だった。


夜の旅






■聖遷(ヒジュラ)
ヤスリブに移住 622年、ムハンマドは、ヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))の住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。これをきっかけに、メッカで迫害されていたムスリムは次々にヤスリブに移住した。メッカの有力者達は、ムハンマドがヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、刺客を放って暗殺を試みた。これを察知したムハンマドは甥のアリーの協力を得て、新月の夜にアブー・バクルと共にメッカを脱出した。メッカは追っ手を差し向けたが、ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事にたどり着いた。この事件をヒジュラ(元来移住という意味だが聖遷や遷都と訳されることが多い)といい、のちに「ヒジュラ暦元年」と定められた。またヤスリブの名をマディーナ(預言者の町)と改めた。

共同体(ウンマ)を結成 マディーナではメッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合しムハンマドを長とするイスラーム共同体(ウンマ)を結成し、彼の教えやウンマの勢力増大に反発するユダヤ教徒などを排除しながらイスラーム共同体の基礎を築いた。

■敵対者との戦争
バドルの戦い ムハンマド率いるイスラーム共同体は周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、マッカの隊商交易を妨害したりしながら急速に勢力を拡大した。こうして両者の間で睨み合いが続いたが、ある時、マディーナ側はメッカの大規模な隊商を発見し、これを襲撃しようとした。しかし、それは事前にメッカ側に察知され、阻止の為、倍以上の部隊を繰り出しすが、バドルの泉の近くで両者は激突、マディーナ側が勝利した。これをバドルの戦いと呼び、以後イスラム教徒はこれを記念し、この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。

ウフドの戦い 翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したメッカは報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。マディーナ軍は戦闘前に離反者を出して不利な戦いをしいられ、メッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗しムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。これ以後、ムハンマドは組織固めを強化し、マッカと通じていたユダヤ人らを追放した。

ハンダクの戦い 627年、メッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。ムハンマドは当時はまだアラビアにはなかった塹壕を掘って敵軍を防ぐ戦術をとりメッカ軍を翻弄した。さらに策略を持って敵軍を分断し撤退させることに成功した。塹壕のことをアラビア語でハンダクと言うため、この戦いはハンダクの戦いと呼ばれる。

クライザ族虐殺事件 メッカ軍を撃退したイスラム軍は武装を解かず、そのままメッカと通じてマディーナのイスラーム共同体と敵対していたマディーナ東南部のユダヤ教徒、クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲襲撃した。この攻勢に耐えかねて無条件降服した彼らの内、戦闘に参加した成人男子を全員処刑して虐殺し、女性や子供は捕虜として奴隷身分に落とさせ、彼らの財産を没収させた。

メッカと停戦 ムハンマドは628年にフダイビーヤの和議によってマッカと停戦した。この和議は当時の勢力差を反映してマディーナ側に不利なものであったが、ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。

ハイバル遠征 この和議の後、先年マディーナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、再度の討伐によってこれを降伏させた。これによりナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課した。
 この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になつた。自信を深めたムハンマドは、ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、イスラームへの改宗を勧め、積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。

メッカに侵攻 630年にメッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。予想以上の勢力となっていたムスリム軍にメッカは戦わずして降伏した。ムハンマドは敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし数名の多神教徒は処刑された。カアバ神殿に祭られる数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。


メッカ偶像破壊





■晩年
イスラムによるアラビア半島統一 ムハンマドはメッカをイスラムの聖地と定め、異教徒を追放した。ムハンマド自身はその後もマディーナに住み、イスラーム共同体の確立に努めた。さらに1万2000もの大軍を派遣して敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定しました。以後、アラビアの大半の部族からイスラムへの改宗の使者が訪れアラビア半島はイスラムによって統一された。またビザンツ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。

メッカへの大巡礼 632年、メッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。このときムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。大巡礼を終えてまもなくムハンマドの体調は急速に悪化した。ムハンマドはアラビア半島から異教徒を追放するように、自分の死後もコーランに従うようにと遺言しマディーナの自宅で没し、この地に葬られた。彼の自宅跡と墓の場所はマディーナの預言者のモスクになっている。


最後の巡礼








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