イスラム教

9.歴史
 ムハンマドの死後、カリフ(後継者・教主)は、選挙によって選ばれました。しかし、4代目のカリフにムハンマドの甥・アリが選ばれると、後継者争いで暗殺され、息子も暗殺されました。アリまでを「正統カリフ時代」といいますが、その後二つの派閥に分かれました。
 アリーに従った一団は、シーア派(アリーの党という意味)となり、アリーとその子孫(イマーム)を正しい後継者と主張しました。もう一つはイスラムの「法」そのものを意味するスンニ派を名乗りました。権力争い後、破れたシーア派はペルシャに逃げました。スンニ派はエジプトから西の方に勢力を拡げていきました。

 ムハンマドの死から8世紀前半にかけて、イスラム帝国(サラセン帝国)は広大な地域に拡大しました。ウマイヤ朝(661ー750)は、征服地域が最大になりました。アッバース朝(750ー1258)では、イスラム文化は先進文化を融合し、世界最高の水準に達しました。
 アラブ軍が征服者ではなく、解放者として迎えられたことも、短期間に大征服をとげた理由です。その証拠に占領地の住民にイスラム教への改宗を強制してはいません。通商圏を奪われたキリスト教徒の反撃が、11世紀末にはじまった十字軍遠征となってあらわれます。

 1258年、モンゴル軍の侵攻によってアッバース朝は滅亡し、イスラム世界に壊滅的な打撃を与えました。
 1299年、オスマン・トルコが建国し、1453年には、東ローマ帝国を滅ぼしました。1517年、オスマン・トルコ皇帝(スルタン)がカリフを兼ねるというスルタン=カリフ制度が成立しました(スンニ派)。しかし、17世紀になると、国内の分裂や中継貿易の衰退(海上交通の発達)により、次第に衰えていきました。

 オスマン・トルコは、第一次世界大戦に同盟側に参戦して敗北し、多大の領土を失いました。1923年に共和国となり、スルタン=カリフ制度は廃止されました。600年にわたるオスマン・トルコ帝国の支配に終止符が打たれました。また、大戦中、イギリスによるアラブ・ユダヤへの二枚舌外交が両民族の激しい対立を生む原因となりました。
 イランでは、16世紀にサファビー朝が成立し、イスラム教シーア派を国教としました。インドのイスラム教は、ムガール帝国(北インド)のもとで大きく発展しましたが、19世紀にイギリスに滅ぼされました。

正統カリフ

ウマイヤ朝

アッバース朝

モンゴル軍

オスマン・トルコ帝国

スルタン











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