オウム真理教
開 祖
 麻原彰晃(あさはら しょうこう)
設 立
 1984年
崇拝対象
 ?
経 典
 ?
本拠地
 ?
信者数
 ?


開祖=麻原彰晃

本部

シンボル


概略
 オウム真理教(おうむしんりきょう)は、かつて存在した麻原彰晃を開祖とする日本の仏教系(原始仏教、チベット仏教)の(新興)宗教団体。一般市民に向けて、日本で初めて化学兵器のサリンを使用し、大量殺戮を行ったことで世界を震撼させたテロリズム行為を行った組織でもある。

 「オウム(AUM)」とは、サンスクリット語またはパーリ語の呪文のことで「ア・ウ・ム」の3文字に分解できる。これは宇宙の創造・維持・破壊を表しており、その意味は「すべては無常である」である、すなわちすべては変化するものであるということを表している。また麻原自身の解説によれば「真理」の意味は、釈迦やイエス・キリストが人間が実践しなければならないものはこうであるという教えを説いたものであるが、その教えの根本であるものを「真理」と呼ぶ。また真理と密接に関係のあるものが科学であるという。

 1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い消滅した。同時に、新たな宗教団体アレフが設立され、教義や信者の一部が引き継がれた。アレフは後にAlephと改称され、また別の宗教団体ひかりの輪が分派した。松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動(「オウム真理教事件」)を行った。自動小銃や化学兵器、麻薬類の量産を行っていたとされる。

麻原彰晃 経歴
■成年前
 1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町(旧八代郡金剛村)の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1.0程度だった。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった(藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのでははないか」という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという)。

 父親は敗戦で朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った。
 『週刊現代』1995年5月27日号「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」p.44で「麻原の父親は朝鮮から日本へ渡ってきた人だったんです」と栗本慎一郎が主張した。一方『週刊文春』2000年新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の警察官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」という。

 また、高山文彦は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との親族の言葉を紹介しており、松本の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面の生まれであるとしている。『オウム真理教大辞典』(東京キララ社、2003年)の「麻原彰晃」の項によれば、本人による「在日」「部落」発言があったという噂のため「在日説、部落出身説があったが、これらはデマである」としている。

 1961年(昭和36年)4月に、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、転校の際には泣いて嫌がったという。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。

 盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配していた。全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていた。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」と言った。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」とうそぶくこともあった。

 金への執着も強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。ただし、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述懐している。

 部活動は柔道に打ち込む一方で、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している。その後、成績は中程度であったにもかかわらず、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗。高等部専攻科に進学する。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。

 政治家の毛沢東などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。

■成人後
 東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る。1976年(昭和51年)1月熊本市春日に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける。

 1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール渋谷校(現在は廃校により存在しない)に入学したが、東大受験は3度諦めている。同年頃から仙道やヨーガの修行を始める。
 1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住。

 1980年(昭和55年)7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。同年8月25日(25歳)、根本仏教系の新宗教団体阿含宗に入信し、3年ほど在籍する。1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」を開局したものの、1982年(昭和57年)に無許可の医薬品を製造販売したため同年6月22日に薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける。このころより知人に「最も儲かるビジネスは何か知っているか? それは宗教だよ[要出典]」ともらしていた。

 1983年(昭和58年)夏(28歳)、東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める。1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立。1986年(昭和61年)4月 税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。

 当時は麻原には妻の知子と3女の子があり千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にちゃぶ台を置き、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。

 後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使うほど愛着を持っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。

 1986年ころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。

 3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は当時は信仰心を有していなかったためか、蚊を平気で殺していた。

 また、麻原はその頃、家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子供に向かっては「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭してりしていた。
 1987年(昭和62年)7月(32歳)には「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称し、世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開。空中浮揚などのショー的なアピールや自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。この年には8名の弟子を解脱に導いたとする。

 1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の修行がどの程度のものなのかチベット仏教の長老に見ていただきたい」と申し出、ダラムサラの宗教・文化庁を紹介される。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用することとなる。

 1990年(平成2年)2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として東京4区(5人区)から出馬したが、13位で落選。その数日後に弟子に対し「この世はもはや救えない、これからは武力で行く」と述べる。直後よりボツリヌス菌製造を開始する。

 2010年(平成22年)オウム真理教元幹部の上祐史浩は、2010年12月3日号の『FRIDAY』誌での対談において「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。麻原の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だ」と断言している。

■逮捕・裁判・死刑確定後
 1995年(平成7年)5月16日(40歳)に山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設「第6サティアン」内で地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された。
 捜査本部は当初、「麻原は1階と2階の間の部屋に隠れている」という遠藤誠一の供述を元に該当箇所を捜索したが見つからず、第6サティアンの南側入り口1階から2階への階段天井部分に造られた隠し部屋(高さ約50cm、幅103cm、奥行き335cm)で、現金960万円の札束と寝袋を抱えて隠れていた所で発見された。

 逮捕後警視庁への護送は、迅速かつ安全を考え当初警視庁が当時保有していた大型ヘリコプターで護送させる予定だったが、当日は悪天候のため飛べず、警察車両での護送に切り替えられた。
 最終的には13事件で27人殺人(裁判では殺人26人と逮捕監禁致死1人)の首謀者として起訴される。1996年(平成8年)4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、僅か48席の一般傍聴席に対して、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した。

 弁護側は、事件は「村井元幹部を中心とした、弟子たちの暴走によるもので、松本自身は一切指示をしていない」と無罪を主張したが、2004年(平成16年)2月27日、東京地裁は「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と認定し、死刑判決を言い渡した。2006年(平成18年)9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した。
 オウム真理教事件で死刑が確定するのは岡崎一明(2005年4月7日に確定)に続いて2人目。1995年5月の逮捕以来、現在迄東京拘置所に収監されている。

関連年譜
 
一連の事件における被害者数は、死者30人・重軽傷者6000人以上。日本史上最悪の組織的犯罪である。

1984年
2月14日 - 麻原彰晃こと松本智津夫により「オウムの会」が東京都渋谷区で創設される。当初はヨガのサークルであった。
5月28日 - 株式会社オウム設立。

1985年
秋 - オカルト雑誌「ムー」「トワイライトゾーン」に麻原の空中浮遊写真が掲載される。

1986年
4月 - 「オウム神仙の会」に改称。
7月 - 麻原がヒマラヤで最終解脱したと主張する。
9月 - 僧伽(出家制度)発足。

1987年
2月 - 大阪支部開設。
2月24日 - ダライ・ラマ14世とインドで会談。
8月 - 「オウム真理教」に改称。本部を渋谷区から世田谷区に移し、月刊誌『マハーヤーナ』発行開始。
11月 - ニューヨーク支部を開設(初代支部長は上祐史浩)。

1988年
7月6日 - ダライ・ラマ14世とインドで会談
8月 - 静岡県富士宮市に富士山総本部を開設。
9月22日 - 富士山総本部に来ていた在家信者が修行中に死亡。遺体は、護摩壇で焼かれた上に、旧上九一色村の精進湖へ遺棄された。(在家信者死亡事件)
11月 - 江東区に東京総本部を開設。

1989年
2月10日 - 教団最初の殺人事件、男性信者殺害事件発生。
3月1日 - 東京都に対し宗教法人の認証申請。
6月22日 - 坂本堤らがオウム真理教被害対策弁護団を結成。
8月16日 - 東京都選挙管理委員会に真理党の政治団体設立を届出。
8月25日 - 宗教法人認可。(8月29日設立登記)
10月2日 - サンデー毎日が『オウム真理教の狂気』の連載をスタートし、高額な布施や未成年出家者に対する親権者の監護権侵害などを取り上げ糾弾する。各メディアもこれに追随する。
10月21日 - オウム真理教被害者の会設立。
10月26日 - 上祐、青山吉伸、早川紀代秀が東京放送(現・TBSテレビ)千代田分室を訪れ、取材内容に抗議、放送を中止するよう圧力をかける。(TBSビデオ問題)
10月30日夜 - 教団顧問弁護士だった青山吉伸が10月29日に申し込み、事前の約束では1人の訪問だったが、上祐史浩と早川紀代秀も同行し横浜法律事務所を訪問した。
11月3日夜から11月4日の朝 - 坂本堤弁護士が失踪、周囲は当初から拉致と見ていた。

11月7日夜 - 坂本堤弁護士に関して捜索願が提出された
11月15日 - 坂本堤弁護士に関し公開捜査に切り替えられた。
11月18日夜 - 坂本堤弁護士に関し教団が記者会見し「(現場に落ちていたプルシャについて)坂本弁護士が被害者の会の親から預かったものか、第三者が故意に置いたと考えるのが自然」「警察からは事情聴取も受けていない」「申し入れがあれば捜査に協力する」と発表した。この時、集中修行は11月いっぱいまでという説明をした。
11月19日 - 前夜の会見を受けてか日曜日にも関わらず神奈川県警察は教団幹部に事情聴取を申し入れたが、教団側は「修行」を理由に事情聴取を拒否、「捜査本部では責任者の集中修行が終わるのを待ってあらためて事情聴取を求める方針」になってしまった。その一方で麻原はある出版社のインタビューに応じる約束を入れていた。
11月21日 - 11月18日の会見で示し11月19日に幹部事情聴取を拒否した理由である集中修行の期間であるにもかかわらず、幹部がKLMでアムステルダムに出国してしまった。しかもこれは11月20日出発の予定がエンジントラブルで1日遅れたものだった。教団側はボンとニューヨークの支部に行く予定が以前から決まっていた旨説明したが、11月21日と11月27日には麻原が出演するコンサートが東京で開かれることになっており、11月25日と11月26日には名古屋で説法会を行なう予定が入っていた。ボンへ行く目的も当初は「布教活動」としていたが、現地会見で「政治活動」や「現地のビルの賃貸借契約が切れてしまうのでお金を払わなければならない。本当は11月15日に行かなければならなかった」と言いだしている。
11月29日 - 富士宮市議会で社会党の渡辺利光市議がオウム真理教について市当局に質問。富士宮総本部には7月に216人が住民登録されていたが、8月に東京都杉並区宮前のある住所に向けて一斉に転出が始まり、11月1日までに17人に減ってしまったという。
11月30日 - 教団はボンで会見。坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言だと主張、その後もテレビなどで「被害者の会の親が、子供から取り上げたバッジを坂本氏の部屋に置いた」と主張した。同行した報道関係者によると現地ではほとんど支部建物に籠り、布教や政治活動をしている形跡はなかった。一行にはドイツ語を話せるものがおらずボン支部へも道に迷い語学が堪能な記者が見かねて教えたという。一行はニューヨークから帰国後テレビの生番組にフル出演、その後インドに渡り年末に帰国した。

1990年
1月7日 - 麻原自身を含む幹部25名が真理党という政治団体を結成し中野文化センターにおいて次期衆議院選挙への集団出馬表明をした。ただし演説したのは麻原だけ、他の24人は本名さえ明かさずホーリーネームでの出馬であった。会場では麻原のお面をかぶった運動員が踊り、「ショーコーショーコー」と麻原の名前を連呼する歌を流し、集まった300人以上の信者が手拍子するという状態で、江川紹子は「選挙運動といっても、その実質は教団や教祖の宣伝」としている。
2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙執行。全員落選。これ以降、社会敵視傾向に拍車がかかる。
5月 - 日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村の土地を5000万円で入手・造成。シャンバラ精舎とする。
8月16日 - 熊本県が国土利用計画法と森林法違反で教団を告発。

10月 - 全国の教団施設が熊本県警の強制捜査を受ける。
11月 - 青山吉伸が逮捕・起訴された。

1991年
3月7日 - ニフティサーブに「オウム真理教会議室」を開設。
春 - 山梨県上九一色村に進出開始。
9月28日 - 『朝まで生テレビ!』にパネリストとして麻原、上祐、村井秀夫、杉浦実が出演。幸福の科学幹部らも出演するが、番組途中に麻原が番組の運行が幸福の科学に有利に進められ、発言の機会も幸福の科学の方が多いなどと興奮し、大声で司会の田原総一朗に食ってかかる場面があった。これに対しパネラーの一人であった下村満子は、「あなたは解脱者を自称するのに、どうしてそんなことで興奮するんですか」と麻原をたしなめた。一方で池田昭、島田裕巳など兼ねてからオウムに共鳴的であった宗教学者も出演した。
12月 - 『ビートたけしのTVタックル』に出演。

1992年
この年マハーポーシャ、マハーサンパッティなどオウム関連の主要な会社が設立された。
2月 - ロシア共和国のオレグ・ロボフらと会談。ロシア進出のきっかけとなる。
5月27日 - 教団が長野県松本市に取得した土地の地主が、売買・賃貸契約の無効と土地の明け渡しを求めて教団を提訴。
6月 - 不動産会社「マハーポーシャ・オーストラリア」を設立、直後に500,000オーストラリアドル(約3000万円)で西オーストラリア州パースの北東700kmにあるレオノーラ地区バンジャウォーン牧場を購入した。
9月 - モスクワ支部を開設(初代支部長は新実智光)。麻原が新実智光、遠藤誠一、豊田亨ら幹部を含む25人の信者を連れてオーストラリアのバンジャウォーン牧場に入り、約1ヶ月滞在した。パース空港到着時、一行が塩酸などの劇薬を所持していたことが明らかになり、遠藤誠一など2人が危険物持ち込みで罰金刑に処せられた。豊田亨は現地に「豊田研究所」と札のついた専門の化学実験室を持っていた。
9月14日 - オカムラ鉄工乗っ取り事件。
11月 - キーレーン結成。
11月23日 - 京都大学で講演し「2000年までに破局が訪れる」と予言した。
12月10日 - 港区に東京総本部開設。同時に江東区の旧総本部は新東京総本部と改称。
12月18日 - 松本支部で「93年の後半、特に10月以降急激に新しい変化」と予言した。

1993年
この年、化学薬品購入目的で下村化学、長谷川ケミカルを設立。ロシアへの射撃訓練ツアーを企画するドゥブニールミリオネールなどを設立した。
漫画家の小林よしのり、幸福の科学総裁の大川隆法、衆議院議員の小沢一郎・細川護熙、タレントのデーブ・スペクターなどの暗殺を計画するも失敗。
3月21日 - 麻原が杉並道場での説法で「1997年にハルマゲドンがある」旨の発言をした。
4月8日 - 麻原が広島支部で説法、この頃から説法に「核兵器」「細菌兵器」「化学兵器」「軍備」という言葉が頻発するようになる。
4月9日 - 麻原が高知支部での説法で初めてサリンに言及した。
6月6日 - オウム真理教男性信者逆さ吊り死亡事件が発生。遺体は幹部らによって遺棄された。
6月28日 - 第1次亀戸異臭事件。
7月2日 - 第2次亀戸異臭事件。
12月18日 - 池田大作サリン襲撃未遂事件。サリン噴霧車を使用した初の事例。現場警備担当の創価学会員数名負傷。実行時に防毒マスクを外した新実智光が重症。

1994年
1月30日 - 薬剤師リンチ殺人事件が発生。
3月27日 - 宮崎県旅館経営者営利略取事件、被害者は5ヶ月間監禁され、解放後の9月2日に告訴した。
5月 - 上九一色村の第7サティアンに化学プラント建設開始(7月完成)
詳細は「サリンプラント建設事件」を参照
5月9日 - 滝本弁護士サリン襲撃事件。
6月 - 1995年3月 - 旧ソ連製のAK-74を密造。
6月27日 - 麻原の体調悪化に伴い省庁制の発足式を挙行。22省庁を開設し大臣と次官を設置。当時の教祖、麻原は神聖法皇に。3女を法皇官房長官とする。
6月27日深夜- 長野地裁松本支部官舎に隣接する住宅街でサリンを噴霧し、8人を殺害。重軽傷660人。当初は被害者の一人であった河野義行に疑惑の目が集まった。

7月9日未明- 第7サティアン周辺で異臭騒ぎがあり、治療が必要な人的被害はなかったものの近くのブナなどの葉が褐色に変色、教団側は否定したが地元の人たちは発生源は教団だと確信していた。警察当局が付近の土を採取し、警察庁科学警察研究所で調べたところ、サリン製造の際の副生成物が検知され、松本サリン事件で現場に残留していた副生成物とほぼ一致したことが判明。
7月10日 - オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件 発生。
7月15日 - 50℃の温熱療法修行による男性信者死亡事件。夕方、7月9日に続き第7サティアンで再び異臭騒ぎ。
7月30日 - 河野義行が退院して「顔も名前も出して結構です」として記者会見を開き、自らの無実を訴えた。
8月10日 - 河野義行が病院で書いた手記が文藝春秋9月号に掲載されて発表され、この後徐々に報道の扱いが変化して行く。
9月20日 - 江川紹子ホスゲン襲撃事件。
12月2日 - 駐車場経営者VX襲撃事件。
12月10日 - ピアニスト監禁事件。
12月12日 - 会社員VX殺害事件。

1995年
1月1日 - 読売新聞が上九一色村の第7サティアンでサリンを生成した際の残留物質である有機リン系化合物が検出されたとスクープ、これを受けてサリンプラントを解体しシヴァ大神を祭った神殿に改装するよう麻原が指示。オウム真理教ラジオ放送『エウアンゲリオン・テス・バシレイアス』中で麻原彰晃は「95年は、社会的に見ても、世界的に見ても、非常に不安定な時代を迎えるわけだが、オウム真理教にとっては逆に外的な圧力は弱められ、大発展の年になるはずである」と予言したが、これは大きく外れた。
1月4日 - 教団は会見を開いて毒ガス攻撃を受けた旨主張、上九一色村のオウム対策委員会副委員長で産業廃棄物処理業を営んでいた人などを殺人未遂罪で刑事告訴した旨明らかにし、これをきっかけに教団とサリンの関係を公然と論評するマスコミも出て来た[61]。「オウム真理教被害者の会」会長をVXガスで襲撃。
1月4日 - 上九一色村の教団施設にサリンを噴霧したとして、教団信徒18人が村内の肥料会社社長を殺人未遂罪で告訴。この件を主導した弁護士の青山が5月4日、名誉毀損罪で逮捕された。
2月9日 - 1月4日に教団が行なった刑事告訴について、告訴された一人が麻原ら4人を誣告罪と名誉毀損罪で甲府地方検察庁に告訴、さらに教団と幹部4人を相手に1億円の慰謝料を求めて甲府地方裁判所に民事訴訟を提起した。
2月28日 - 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で男性1人が死亡。
3月13日 - 「オウム真理教被害対策弁護団」の滝本太郎弁護士が警察庁長官と検事総長宛に「本当にオウムがサリンを撒く可能性がある」と速達で上申。
3月15日 - 東京・霞ヶ関の地下鉄駅構内で、不審なアタッシェケース(中身は超音波振動による自動式の噴霧器)が発見され、警視庁の爆発物処理班が出動する。
3月17日 - 複数の教団幹部のステージ昇格を伝える尊師通達が発令される。(当月付けから7月付けまで計23名)
3月17日 - 警察庁において警視庁機動隊と捜査一課捜査員によるオウム真理教に対する一斉家宅捜索を3月22日に行う決定。
3月18日 - 「オウム真理教から被害者を救出する会」主催による1万人集会が行なわれた。
3月19日 - 脱会希望の大学生を拉致した容疑で大阪府警が教団大阪支部に家宅捜索、信者3名を逮捕。夜、教団の南青山総本部と、一貫してオウム擁護の立場にあった島田裕巳が以前住んでいたマンションに火炎瓶が投げ込まれた[58]が、これは後に井上嘉浩の指示で現職自衛官の在家信者が起こした自作自演と判明した。
3月20日 - 東京の営団地下鉄(現・東京地下鉄)でサリンを撒き、13人を殺害、5,510人が重軽傷を負った。
3月22日 - 警視庁が公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教信徒の逮捕状を取り、上九一色村の教団施設など1都2県の施設25カ所を一斉家宅捜索。
4月1日 - オウム真理教附属医院の佐々木正光医師が麻原について肝硬変、Q熱、慢性心不全、心内膜炎の疑い、皮膚炎と5つもの病名を挙げて「約1ヶ月の加療及びベッド上安静が必要であると判断する」との診断書を作成したが、5月16日に逮捕された麻原は健康上何の問題もなかった。
4月18日 - ロシア全土における活動禁止命令。
4月23日 - 村井秀夫刺殺事件。
5月16日 - 東京都庁小包爆弾事件。山梨県上九一色村の教団施設を一斉捜査。麻原彰晃こと松本智津夫を逮捕。
6月30日 - 東京地方検察庁と東京都が法人解散請求を東京地方裁判所に申請した。
10月30日 - 東京地方裁判所が宗教法人法に基づく解散命令を決定(同年12月確定)。
10月31日-11月1日 - 米上院政府活動委員会の調査小委員会がこの期間に開いた公聴会で、CIAの調査とサム・ナンの執筆による、100ページ余りの『オウム真理教事件報告書』が提出される。
12月 - 国会で宗教法人法改正法が成立。

1996年
6月19日 - 麻原(松本)に代わり、松本の長男(当時3歳)と次男(当時2歳)の二人を「教祖」とした。麻原の地位は「開祖」になった。
8月24日 - 10月下旬 - 麻原彰晃逮捕後の信者の引き締めを目的とする「観念崩壊セミナー」が、麻原の三女が中心となり断続的に行われ、多くの負傷者を出した。
1997年
1月31日 - 公安審査委員会、オウム真理教への破壊活動防止法の適用を棄却。

1999年
4月 - 東京都内の繁華街で“復活”をアピール。
12月3日 - 団体規制法と破産特別法が成立。

2000年
2月1日 - 団体規制法に基づく公安調査庁長官の観察処分(3年間)が効力発生。
2月4日 - 「宗教団体・アレフ」として再編。
7月1日 - ロシアで松本智津夫の武力奪還・対日テロを図ったオウム信者逮捕(シガチョフ事件)

2002年
1月 - 上祐が教団代表に就任。麻原彰晃との決別を表明。
10月25日 - 『オウム問題を考える議員の会』代表世話人の石井紘基が刺殺される。

2003年
1月23日 - 団体規制法に基づく観察処分の期間更新(2月1日から3年)決定。
2月 - 「宗教団体・アーレフ」と改称。

2004年
2月27日 - 東京地裁が松本智津夫に死刑判決。

2006年
9月15日 - 最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定。

2007年
3月8日 - アーレフから上祐前代表含む62人が脱会(脱会届提出は前日)。
5月7日 - 上祐前代表を含む62人による新団体「ひかりの輪」設立。公安調査庁への報告。

2008年
5月20日 - 「Aleph」(アレフ)と改称。

2011年
12月31日 - 平田信が警視庁丸の内警察署に出頭。翌日に逮捕監禁致死の容疑で逮捕。

2012年
6月3日 - 菊地直子が相模原市内の潜伏先で身柄を確保された。2015年11月27日無罪で釈放
6月15日 - 高橋克也が東京都大田区の漫画喫茶内で身柄を確保される。これによりオウム関連の特別指名手配者はすべて確保された。

2015年
10月21日 - ロシア治安当局が、モスクワで「オウム真理教」と称する団体施設を摘発したと、大衆紙コムソモリスカヤ・プラウダが報じた。この団体はヨガの修行という名目でインターネットの交流サイトなどを利用し信者を拡大。モスクワ中心部の施設に信者が週3回集まり、断食・断眠の状態で修行し、救急車が出動する騒動などを起こしていた。ロシア国内には54か所の団体施設があり、2014年5月にも摘発を受けていた。治安当局は、市民の権利を侵害する団体を設立した疑いで捜査を始めた。

その他
■公称信徒数
1985年12月 - 15人
1986年10月 - 35人
1987年2月 - 600人
1987年7月 - 1,300人
1988年8月 - 3,000人
1995年3月 - 15,400人(出家1,400人、在家14,000人)
1997年7月 - 5,500人(出家500人、在家5,000人)
1997年12月 - 2,200人(出家900人、在家1,300人)
2000年 - 1,115人(教団が公安調査庁に報告した数)
2003年2月 - 1,251人(教団が公安調査庁に報告した数)


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