バハーイ教
開 祖
 バハーウッラー
設 立
 1863年
崇拝対象
 ?
経 典
 至聖の書(キターベ・アクダス)
本拠地
 イスラエル・ハイファ
信者数
 600万人


開祖=バハーウッラー

本部=世界センター

シンボル=九芒星


1.概略
 バハーイ教は、イスラム教シーア派から興った新興宗派のバーブ教から、さらに派生した新興の宗教である。開祖は、バハーウッラーというイラン人。バーブ教は、バーブという称号を持つシーア派イスラム教徒のセイイェド・アリー・ムハンマドが創始したが、彼はバーブ教初期の教徒として、指導的役割を果たしていた。イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラク、トルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。

 信徒数は公称600万人、189ヶ国と46の属領に広がっており、現在布教国数でキリスト教に続き世界で二番目に広がりを見せている宗教である。「バハイ教」「バハウラ」「バハイ信教」とも呼ばれる。

2.開祖
【バハーウッラー】 1817〜1892
 バハーウッラー(1817年11月12日〜1892年5月29日)は、バハーイ教の預言者・教祖である。日本のバハーイ(バハイ)共同体では「バハオラ」と表記されている。もともとの名はミールザー・ホセイン・アリー。
 イランのカージャール朝に仕える高級官僚の家系の一員としてテヘランに生まれる。1844年にセイイェド・アリー=モハンマド(称号はバーブ)によってバーブ教が起こされると、その信徒になった。政府によるバーブ教弾圧が始まると、逮捕されるが、この獄中生活の最中に、最初の啓示を受け取ったとされる。

 1863年、家族とともにイラクのバグダード(オスマン帝国領)に追放され、さらにイスタンブル、エディルネに移されるが、この間に、レズワンの園で自身がバーブが登場を予言した預言者、「神が現し給う者」であると明かす。アラビア語で「神の栄光」を意味するバハーウッラーの称号を名乗り、彼自身が神の預言を受けて著した『至聖の書』を教典とする新宗教バハーイー教を起こした。このとき、彼の弟ミールザー・ヤフヤーはバーブの教義をそのまま遵守することを選んで兄と訣別し、バーブ教の指導者となるが、バーブ教のほとんどの信徒はバハーウッラーの教えを受け入れ、バハーイ教徒になった。

 バハーウッラーは1868年にオスマン帝国政府によってパレスチナのアッカー(アクレ)に流され、投獄された。のちにアッカの牢獄がトルコ政府によって砦として使われることになったので放免。1892年に亡くなるまでアッカの周辺に住んだ。バグジの街には晩年彼が過ごした家などが残る。彼の眠るアクレの地はバハーイー教徒にとっての聖地となっている。

3.歴史
【バーブ教の弾圧】
 バーブ教は1844年に、創始者バーブが自らバーブであると宣言して以来、急激に発展したが、当時のイランを支配していたカジャール朝政府は激しい弾圧を加えた。バーブは1850年、異端者としてテヘランの近くで銃殺刑にされた。バーブの死後、後継者争いが起こり、最終的に指導権を握ったのが、バハーウッラー。バーブ教の信者の大半は、彼のもとに統括されていった。

 バハーウッラーは、テヘランの名家の出といわれるが、いっさい学校教育を受けたことがないという。若くしてバーブ教徒となったが、バーブには生前、会う機会はなかった。また、バーブの著作『バヤーン』を読むこともなしに、その内容を十分に理解していたとも伝えられる。

【バハーイ教の誕生】
 カジャール朝政府によるバーブ教への弾圧に対して、バハーウッラーも抵抗運動に参加したため、1852年に投獄されるが、翌年に出獄を許される。そしてバグダッドに滞在中の1863年、彼は自らをバーブによって予告された「神の顕示者」、つまり預言者であると宣言。まもなく新宗教バハーイ教の布教を始め、バーブ教から離脱した。

 オスマン帝国によってイラク、トルコから追放されたバハーウッラーは、パレスチナのアッカーを新宗教の本拠地と定め、布教と執筆活動に人った。その著作『アクダス』は、バハーイ教の聖典とされている。
 バハーウッラーの後継者となった長男アッバース・エフィンディー(通称アブドル・バハー)は、欧米に熱心な布教活動を行ない、バハーイ教を国際的宗教に充展させる基礎を築いた。

 3代目教主となったアブドル・バハーの孫のショーギー・エフェンディー・ラッバーニーの時代には、ハイファにハバーイ教の礼拝センターも建てられた。

4.経典
 バハーウッラーは、数多くの書物を著したが、中でも『至聖の書(キターベ・アクダス)』は『コーラン』やバーブの著した『バヤーン』に代わる教典とみなされる。 

5.教義・崇拝対象
【人類の平和と統一を願う】
 バハーイ教では、創始者のバハー・アッラーとバーブ教の創始者バーブの2人が、神の顕示者として崇拝されている。また、2代目教主のアブドル・パハーも、教義の具現者、正しい理解者として尊崇を集めている。

 教義は、バーブ教の教義を発展させたもので、すべての宗教の根源は一つであるとする。そして、人類の平和と統一を究極の目的とし、あらゆる偏見の排除、両性の平等、科学と宗教の調和を説く。バハーイ教では、すべての宗教の創始者を神の預言者、人類発展のために造わされた神の代理人と見なしている.また、時代の要請によって、今後も継続的に.預言者は神によって遣わされると説く。
 バハーイ教への入信は、これらの基本事項に賛同し、創始者たちへの信仰があれば誰にでも可能で、聖職者も特別な入信式もない。

【基本的な教義】
1.人間はすべて一つの地球家族に属すること。
2.真理を自分の力で探すこと。
3.世界平和の達成。
4.あらゆる種類の偏見の排除。
5.男女は平等の機会、権利、人権を持つ。
6.世界のあらゆる国での義務教育の普及。
7.科学と宗教の調和。
8.極端な貧富の差の排除。
9.世界裁判所の設立。
10.国際補助語の採用。
11.自国の政府に従うこと。
12.宗教は世界の人々を和合させるためにある。

【信仰生活】
礼拝=戒律の緩いバハ一イ教でも、毎日の義務である。「必須礼拝文」がある一方で、自ら礼拝文をつくる信者もいるという。
瞑想=聖典を読んだうえで、その本質を見つめるために瞑想が設けられている。礼拝とは別に、1日に2回行なう。
聖約=信者全員の団結を守り、和合を保つための精神的な契約のこと。争いや分裂を防ぐ源となっている。
断食=バハーイ暦の最後の月(19月〕には、日の出から日没まで断食する。新年に向けた精神的な準備となる。
 
【生活習慣】
 バハーイ教では、バーブ教にならって19を聖なる数字とし、1年を19ヵ月、1カ月は19日とするバハーイ暦にしたがって、信者は毎月1日に集会に出席し、聖典を読み、連併を協議する。
 バハーイ暦の最後の19月には、日の出から日没まで、断食が行なわれる.1日3回の礼拝は葬儀などの特別な場合を除き個別に行なうものとされ、祈りの言薬はいかなる言語が使われてもいいことになっている。

 聖典『アクダス』には、遺産相続を含め、あらゆる収入に19パーセントの宗教税がかかることが定められ、刑法・宗法その他の規定も詳細に記されている。結婚は一夫一婦制で、両親の同意が必要との決まりもある。

6.活動・機関誌
 バハーイ教には聖職者はおらず、各地のバハーイ共同体は「地方精神行政会」(Local Spiritual Assembly)と呼ばれる。同様に、「全国精神行政会」(NSA)と呼ばれる9メンバーの行政会は、全国バハーイ共同体の事務を指示し調整する役目を負う。その上に万国正義院 (House of Justice) の世界全体を管轄する9メンバーの行政会がおかれる。これらのメンバーは、成人のバハーイ教徒の中から共同体に役立つことができる信徒を互選することになっている。なお、万国正義院、全国精神行政会、地方精神行政会への立候補など、選挙運動は禁じられている。

7.行事

8.施設・関連団体
【礼拝センター】
 世界各国にある礼拝センターはすべて九角形の建物で、九つの入り口がある。これは全人類の和合という意味が込められている。病院や学校などの付属施設も多い。バハーイ教は外部の社会に開かれ、社会活動は活発である。
 アメリカ・イリノイ州のウィルメット、ドイツのフランクフルト、ウガンダのカンパラ、それにシドニーやパナマ市の礼拝センターがよく知られる。センターでは特別な説教は行なわれず、諸宗教の聖典が朗読されるという。

9.著名人

10.その他
【バーブ】 〜1850年
 1844年に、イランのシーラーズの商人セイイェド・アリー・モハンマド(バハーイ教では啓示者のひとり)が、イマームと交信する能力があると宣言して、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」の称号を名乗った。彼の開いたバーブ教は、実質的にイスラム教から独立した宗教であるとみなされる。

 シャイヒー派の信徒を中心に多くの十二イマーム派の信徒に支持されたが、イランの十二イマーム派ウラマーたちの強い反発を招き、ガージャール朝政府の弾圧を受けた。バーブ教信徒たちは反乱を起こして抵抗したが鎮圧された。結局バーブは1850年、タブリーズで処刑されるが、信徒たちは今度はバーブが予言した「神が現し給う者」の到来を探し始めた。

【アブドゥルバハー】 〜1921年
 バハーウッラーによって後継者に使命されたのは、彼の長男、アブドゥルバハー(彼の名前はアラビア語で「栄光のしもべ」を意味する)であった。バハーウッラーは長男を「聖約の中心」と呼ぶように定め、全てのバハーイ教徒がバハーウッラーの指示に従うよう指示した。バハーウッラー自身彼のことを息子でありながら「マスター」(先生)と呼んだと言う。

 アブドゥルバハーは既に父の長い追放と監禁の生活を共に過ごしていたが、彼の継承後も監禁生活は1908年の青年トルコ人革命まで続いた。解放後、アブドゥルバハーは父の教えをアラビア語で「バハーに従う者」を意味する「バハーイ」と呼ぶことを宣言した。彼はヨーロッパ、アメリカ、カナダに旅行して世界的な宣教を開始し、多くのバハーイ教文献が様々な言語に翻訳された。1921年11月28日にアブドゥルバハーはハイファで亡くなった。遺体はバーブの遺骸のある聖堂に埋められている。

【ショーギ・エフェンディー】 〜1957年
 アブドゥルバハーの孫であり、また、バーブの血を引くため次の後継者となる。彼の死後は万国正義院がバハーイ教の中心となった。アブドゥルバハーは父、バハーウッラーの御教えに基づき「万国正義院」と呼ばれるバハーイ共同体最高機関の設置を定め、後継者として最年長の孫、ショーギ・エフェンディを「バハーイの守護者」に任命した。

 祖父が死んだときオックスフォード大学の学生であったショーギ・エフェンディは、1957年にイギリスで死去するまでの36年間、万国正義院に指導されるバハーイ共同体の組織確立に尽力した。バハーウッラーとアブドゥルバハーの著作の翻訳が精力的に進められたショーギ・エフェンディの時代にハイファのバハーイ教本部は世界センターに発展し、バハーイ教の世界布教は大いに進展する。
 1963年には、万国正義院の行政会を構成し世界のバハーイ教徒を指導する9人のメンバーの最初の選挙が行われた。


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