ネーション・オブ・イスラム(ブラック・ムスリム)
開 祖
 ウォーレス・ファード
設 立
 1930年
崇拝対象
 アッラーフ
経 典
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本拠地
 ?
信者数
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開祖=ウォーレス・ファード

本部

シンボル


1.概略
 ネーション・オブ・イスラム (Nation of Islam, NOI) は、アメリカ合衆国におけるアフリカ系アメリカ人のイスラム運動組織。伝統的なイスラム教の教義を大きく否定しているため、イスラム教の一派というよりも、イスラム教から派生した新宗教と見なされている。
 ブラック・ムスリム・ムーヴメント (Black Muslim Movement) とも呼ばれ、世界恐慌中の1930年にデトロイトでマフディ(救世主)を名乗ったウォーレス・ファード(アフガニスタン出身とされている)によって創始された。黒人の経済的自立を目指す社会運動であり、白人社会への同化を拒否し、黒人の民族的優越を説く宗教運動でもある。

2.開祖
【ウォーレス・ファード】1877〜1893年
 ファードは聖書を否定し、アフリカ系アメリカ人の神はただアッラーフのみであり、奴隷化される以前の宗教はキリスト教ではなくイスラム教であったのだと説き、白人に対する民族 (nation) としての黒人のアイデンティティを主張した。彼は1934年に謎の失踪を遂げるが、その創立したテンプル・オブ・イスラムと呼ばれる教団はイライジャ・ムハンマドが後継し、発展していった。 

3.歴史
 イライジャ・ムハンマドの布教によって全米に広がった NOI は、第二次世界大戦後に入信したマルコムX の活躍で大発展を遂げる。イライジャの思想の宣伝活動者となったマルコムは、黒人の貧困救済を唱えて北部の都市部で苦しむ黒人たちの間に勢力を広げる一方、白人を悪魔と呼んで激しく批判した。このため、NOI は Black Muslims と呼ばれ、公民権運動によって権利向上を目指していた黒人を含め、アメリカ社会全体から過激派や分離主義者と見られることが多かった。そこには白人優勢のメディアが大きな影響を与えていたと考えられる。

 1960年代に入るとマルコムX とイライジャ・ムハンマドの関係が悪化し、マルコムは教団を追放されて伝統的イスラム教に回帰(当のマルコムX は1965年当教団の暗殺指令を受けた信者により銃殺されている)。イライジャも1975年に死去し、後を継いだ息子のワリス・ディーン・ムハンマドは、父の残した教義から伝統的なスンナ派イスラムの教義と齟齬のある部分を排除し、黒人分離主義的な運動をやめて合衆国への忠誠を説き始め、教団名も "American Muslim Mission" (アメリカ・ムスリム伝道団)、後に"American Society of Muslims"(アメリカ・ムスリム協会)に改めたが、彼が引退した2003年に組織は解散している。

 一方で、組織の急激な穏健化に不満を抱いたルイス・ファラカーンを中心とする人々は分派を結成。ファラカーンはイライジャの思想を継承し、黒人の社会運動と社会に対する過激な発言や行動を続けている。
 現在、NOI と呼ばれている組織はファラカーン派が発展したもので、1995年にはワシントンD.C.で大デモ活動「百万人大行進」 (Million Man March) を行って健在を示した。ファラカーンは2012年現在も組織を率いている。

4.経典 

5.教義・崇拝対象
 伝統的なイスラム教を信じる世界の多くのムスリムは、独特の教義を持つ NOI の信徒をムスリムであると認めないことが多い。以下の点では、NOI は伝統的イスラム教と一致する。
  アッラーフは唯一神であること。
  最後の審判によって死者が蘇り、天国と地獄に送られること。
  ラマダーンの月に日中の断食を行うこと。
 しかし、以下のような大きな相違点がある。
【黒人至上主義】
 伝統的イスラム教は、全ての人間は神によって創造されたアダムとイブの子孫であり、人種は平等であると説く。 NOI は、アダムとイブが創造される前に神によって黒人が創造されたと説く。
【預言者・使徒】
 伝統的イスラム教は、ムハンマドが最後にして最大の預言者かつ使徒であるとし、以降の世界に預言者はもちろん使徒も現れないと説く。NOI は、ムハンマドが最後の預言者であるが、イライジャ・ムハンマドは使徒であると説く。
【マフディ】
 シーア派の多くは、千年近くガイバにあり(隠れており)、最後の審判の際にイーサーと前後して再臨する最終代のイマームこそがマフディであると説く。NOIは、1930年代に現れたウォーレス・ファードこそがマフディであると説く。

6.活動・機関誌

7.行事

8.施設・関連団体

9.著名人

10.その他
【マルコムX】
 マルコムX (Malcolm X, 1925年5月19日〜1965年2月21日) は、アメリカの黒人公民権運動活動家。ネーション・オブ・イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク (Muslim Mosque, Inc.) およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) の創立者でもある。出生名はマルコム・リトル (Malcolm Little) 。非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られている。

■生い立ち
 マルコムはネブラスカ州オマハに生まれる。バプテストの反体制的な牧師だった彼の父親アール・リトルは、アメリカに黒人の自由は存在しないと考えている人物だった。自宅敷地内に家庭菜園を作り家畜を育てほぼ自給自足に近い生活を送り、周辺に住む他の黒人のように白人に媚び諂い仕事を分けてもらう事を良しとしない人物だった。

 そのため、一家は当時大きな勢力を誇っていた KKK の標的にされていた。父は1931年にミシガン州ランシングで人種差別主義者によって殺害された。頭が変形するほど殴られ、体が三つに切断されるように線路に放置されて轢死体となって発見された。明らかな殺人にも関わらず警察は自殺と断定した。当時マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入っており、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額だったため保険金が支払われたが、もう一つの保険会社は受け取りの金額が大きかったため、警察が自殺と断定したとの理由により保険金は支払われなかった。

 その後彼の母ルイーズは精神を病み、精神病院に送られた。後にマルコムと兄弟姉妹が精神病院から引き取るが、その時にはマルコムを含めて子供達の事を全く認識出来なかった事から、人間モルモットまがいの扱いを受けていたものと推測されたが、病院側はあらゆる質問を拒否し彼女のカルテも無断で破棄したため事実は不明である。マルコムは自伝で、役所の人間が同じ事を何度も母に尋ね子供達を里子に出す事を強要したため精神を病んだのだ、と記述している。

■母ルイーズ
 ルイーズは黒人と白人の混血で、母親(マルコムの祖母)が白人に強姦されて生まれた。一見すると褐色の肌の白人と間違えられ、そのお陰で職を得られた事もあったが、白人の血が入った黒人である事が発覚すると即座に解雇された。マルコムは自伝で、「母は自分の体に流れている白人の血を憎み、黒人の中でもとりわけ肌の色が黒く黒人然とした父と結婚したのだ」と語ってはいるものの、実際にはマルコムの父が殺害される数年前から夫婦仲は冷え切り喧嘩が絶えなかった、とマルコムの兄姉は証言している。

 事実、アールが殺害された晩も、夕食のメニューという些細な事で口論となり、彼が家を飛び出してその帰り道に襲撃され殺害されている。ルイーズは初婚であったが、アールにとっては3度目の結婚であった。彼女は夫の死後9人の子供を一人で育てる事になった上に精神を病んだため子供たちはそれぞれ別の家に里子に出された。

■上流階級の里子
 マルコムは白人の上流階級の家に引き取られたが、自伝ではあくまでも「高価あるいは珍しい動物としてしか扱われなかった」と語っている。事実、この時代のアメリカでは慈善事業と謳い、裕福な富裕白人層が黒人の孤児を引き取る事が流行していた。マルコムは幼い頃から優秀な成績を収め学級委員長に何度も当選したが、引越し先ではやむを得ず白人の学校に一人だけ黒人として通う事もあり、席は常に一番後ろだった。

 白人教師から将来何になりたいかを聞かれた時、弁護士か医者と答えたが、教師からは「黒人はどんなに頑張っても偉くなれない。黒人らしい夢を見た方がいい」と諭され、手先の器用さと人当たりの良さを生かして大工になる事を勧められた。
 高校を中退し、異母姉エラ(アールと前妻の娘)と一緒に住むためにボストンへ転居、リンディー・ナイトクラブで靴磨きの仕事を行った。自伝でデューク・エリントンや他の有名な音楽家の靴を磨いたと語っている。その後、ニューヨークのハーレムでギャンブル、麻薬取引、売春、ゆすりおよび強盗に手を染めた。

 さらに第二次世界大戦中、徴兵を回避するために精神異常を装った。ニューヨークでは黒人男性が白人女性を相手する売春組織に入ろうとした事もあったが、母方から白人の血が入っていたためその肌の色は漆黒ではなく赤みの強い濃い茶色、瞳も髪の色も茶色がかっていたため、肌の色が明るすぎるとして組織への入会を断られている。事実、彼は黒人の仲間達からその肌の色から「レッド」の愛称で親しまれていた。

■服役と改宗
 1946年1月12日、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役8〜10年が宣告された。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となる事が多いが、白人女性のソフィアと継続的な性的関係を持っていたため、通常よりも長い懲役刑を宣告された。収監されたチャールズタウン州刑務所ではあらゆるものを罵り、特に神と聖書に対する悪罵から彼は「サタン」と呼ばれた。

 1948年に家族がマルコムをイスラム教に改宗させた。彼は獄中でイライジャ・ムハンマド (en:Elijah Muhammad) の教徒と彼の行っていたブラック・ムスリム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。異母姉のエラは、彼をより自由のきくノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送する支援をした。

 そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えと NOI の正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所の図書館の全辞書を筆写したりもした。その際、刑務所内で勉強するためとして割り当てられていた時間を越えて消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、収監前は 2.0 あった視力が 0.2 まで落ち、後に眼鏡を購入する事になった。

■NOI から "X" という姓
 出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には刑務所内の図書館だ、と答えている。マルコムは自伝で、大学や大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教された事に気付かない哀れな家畜だ」と述べている。

 マルコムは1952年8月7日に釈放され、スーツケースと眼鏡、時計を購入した。後に彼はこれらのものが、自分の人生の中で最も役に立ったアイテムだったと語った。
 1952年9月、彼は NOI から "X" という姓を授かり、これ以降現在の本名「マルコムX」を名乗ることになる。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネーション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。同名の人物が入信した場合、入信した順番に「X」の後ろに番号をつける事になっていた。○○X2、○○X3、といった具合である。

 1957年、ネーション・オブ・イスラムの一人が警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムを中心とした FOI (Fruit of Islam, 信者の総称) が留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、NOI とマルコムは一躍名を知られることとなった。

■脱退とメッカ巡礼
 1962年、イライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明し、マルコムは NOI に失望する。彼はイライジャの行為に怒り、このことを告発。NOI における立場を危うくする事になる。1963年2月に教団は彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。
 1964年3月26日、マルコムはキング牧師と最初で最後の対面をした。これはあらかじめ予定されていたものではなく、その日二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみでわずか1分ほどで終わった。

 同年、マルコムはメッカに巡礼。そこで彼は現地のイスラム教徒から熱い歓迎を受ける。白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しない彼らに感銘を受け、それまでの考えを捨てた(ただし人種概念をもとに大別した時、中東系はコーカソイドとされるが、ヨーロッパ系からは同じ白人としてみなされる場面は少ない)。正統派への転向者としてアメリカに帰国し、NOI を脱退し、アフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) を組織するが、マルコムと NOI の緊張は増加した。

 教団内に侵入したFBIの潜入捜査官は、マルコムが教団によって暗殺の対象になったと報告した。メッカ巡礼後、マルコムはアメリカの黒人に向けてアフリカへ帰れ、と呼びかけた。
 暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムXの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。

■暗殺とその後
 教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下した。教団内の FBI 工作員は教団からマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅は教団メンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。

 一週間後の2月21日、マンハッタン、ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、400 人の群衆の中で騒動が発生した。男が「俺のポケットから手を離せ!、ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。さらに他の二人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲した。マルコムは 15 発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。

 マルコムX はニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、NOI の信者、タルマージ・ヘイヤー(トーマス・ヘーガン)、ノーマン・3X・バトラー(ムハンマド・アブドゥル・アジズ)およびトマス・15X・ジョンソン(カリル・イスラム)の三人が殺人罪で逮捕され、全員が1966年3月に第一級殺人で有罪と判決された。

 2010年4月27日、暗殺犯の一人ヘーガンが44年ぶりに仮釈放を認められた。仮釈放の申請はこれが 17 回目だった。ヘーガンは1966年暗殺の実行犯として 20 年から無期の禁固刑を言い渡されたが、1992年以降は仕事を続ける事を条件に週に 5 日間自宅に戻ることができ、2 日間だけ刑務所で過ごすプログラムが適用されていた。なおほかの二人は1980年代後半に仮釈放が認められている。
 ヘーガンは犯行動機について、マルコムX が意見の相違を理由に NOI と袂を分かった為と語った。

 マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBI や CIA すらも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後もそのような噂は途絶えなかった。
1964年と1965年の間に、マルコムの死の直前まで行なわれたインタビューに基づき、アレックス・ヘイリーによって執筆された『マルコムX自伝』は1965年に出版され、タイム誌によって 20 世紀の 10 冊の最も重要なノンフィクションの中の1つに選ばれた。

■マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとの関係
 マルコムX は一時期融和的なキング牧師を公然と「弱腰」と批判し双方共に敵対していたとされているが、側近や親族の証言によると、晩年の2人の主張や姿勢は逆転していた、とされている。マルコムX はいついかなる時でもイスラムへの信仰を捨てず、キング牧師への支援を申し出ている。更にキング牧師は亡くなる前の3年間、マルコムX が暗殺されたのちより急進的になり、スピーチでもマルコムX のようなレトリックを多用した、とされている。

■マルコムX とモハメド・アリとの関係
 マルコムXは生前及び没後もなお、多くの人物に影響を与えた。なかでも著名なのがモハメド・アリのケースであろう。アリはマルコムX と出会いその思想に啓蒙されイスラム教に改宗する。その時既に自身の旧名、カシアス・クレイでボクサーとして活躍し、世界チャンピオンになっていたが、教団から授かった名前で現在の本名であるムスリム名、モハメド・アリに改名し、周囲を驚かせた。また、マルコムX の影響を受けて、アリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。これは世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う厳しい選択であったが、アリは自身の理念を貫いた。
 


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