霊友会
開 祖
 久保角太郎
設 立
 1920年
崇拝対象
 ?
経 典
 青経巻、法華三部経
本拠地
 東京都港区
信者数
 440万人


開祖=久保角太郎

霊友会釈迦殿

シンボル


1.概略
 霊友会(れいゆうかい)は、久保角太郎(くぼ かくたろう)と小谷喜美(こたにきみ)が中心となって創立した法華系在家仏教の代表的な教団。霊友会からは立正佼成会、妙智会教団など有力分派が輩出し、法華系新宗教の母体となった。教義の中心は、法華信仰と先祖供養との結合である。
 現在、霊友会は事実上2団体存在する。会員を合わせると、信者数は公称440万人(2004年1月15日現在)。本部は2団体いずれも東京都港区内にある。
 霊友会大形派(大形市太郎会長) 「霊友会」:東京都港区麻布台1-7-8
 霊友会松本派(松本廣代表)「Inner Trip REIYUKAI International」:Empire State Building Suite 6909, 350 Fifth Avenue, New York, NY 10118, USA

2.開祖
【久保 角太郎】(くぼ かくたろう、明治25年(1892年)1月7日〜昭和19年(1944年)11月18日)

■大乗仏教の菩薩行の実践
 普遍的な菩薩行の実践は古来より大乗仏教の理想であった。しかし、19世紀の終り頃までは、アジアの伝統的な仏教国においては、人々の識字率は極めて低く、経典を自身で読む事など不可能であった。僧院等で教育を受け訓練された僧侶だけが仏の教えを本格的に行じることが出来た。

 しかし、仏教国の一つである日本において、19世紀の終り頃から始まった全国的教育制度の普及により、人々の識字率は劇的に向上した。これは、普遍的な菩薩行の実践の為の最大の障害が取り除かれたということを意味した。だが、既成仏教の中からは、これを機に、率先して菩薩行を民衆にもたらそうという動きは見られなかった。

■1920年〜西田無学の影響
 久保角太郎は、当時巷で人知れず無縁仏を含む万霊供養を実践していたという西田無学の存在とその思想を知る。何の見返りもなくただひたすらに無縁仏の供養に明け暮れていたという西田の生き方に、生死に関わらず一切衆生に仏の教えを伝えようとする菩薩の生き方を角太郎は感じとったようである。 しかし、角太郎が西田の存在を知るその前々年には西田は既に他界していた。そして残された少数の信者達が西田の思想と行法を細々と保持している状態であった。

 西田無学の思想は、法華経常不軽菩薩品第二十の、すべての人が仏になれることを信じて決して誰も軽んじず、ひたすらに尊重礼拝するといういわゆる但行礼拝行をその発想の原点として、その対象を死者にまで広げ、法華経の開経である無量義経からの抜粋と同じく結経である仏説観普賢菩薩行法経からの抜粋をもって、供養するというものであった。特に、自らの先祖は自分自身に繋がる最も縁のある人々であり、その供養を他人任せに(僧侶に供養してもらうという事)するのは、自分自身を他人任せにするに等しいとして、自ら自身の先祖を供養するという在家主義による先祖の供養の重要性を強調した。

 西田はまた、仏法における人々の平等性を強調し、既成仏教において布施の金額によって戒名の格付けまでなされている事に強く反発し、全ての人に平等に生・院・徳という格の高い文字が含まれた法名を付け直し、それを成仏への願いの象徴として、真心を込めて供養するというシステムを作り出した。
 その後、角太郎は、普遍的な菩薩行を確立すべく、本格的な法華経研究と実践的な方法論の試行錯誤に没入していった。

■法華経の菩薩行
 角太郎の考えた菩薩行とは、人間一人一人が一切衆生の個々の思い、個々の苦悩や喜び一つ一つに耳を傾け、それに共感し、そこからその思いを仏法によって昇華させ、一人一人が菩薩としての道を歩めるようにしようというものであった。

 その道は生者のみならず、死者にも開かれたものであるべきだとされた。そして、個々の死者とのコミュニケーションの手段として、シャーマニズム的な手法を取り入れようとした。つまり、個々の死者の思いや苦悩をシャーマンを通じて聞き出し、対話を通じて仏法によって説得・教化し、その後の法華経による供養により、苦しみから解放し仏道に目覚めてもらおうという趣旨であった。(病気の原因などを霊能者によって探り、先祖供養によって因縁切りする。)

■1924年〜第一次霊友会の試み
 角太郎はその方法論を確立すべく、当初、法華経の行者であり町の霊能者として巷で知られていた若月チセ夫妻と組み、第一次霊友会(通称:南千住霊友会)を立ち上げた。しかし、全ての人々に菩薩行を普及しようと言う角太郎の理想は、シャーマンとしての権威と人々からの尊崇に拘った若月チセには十分に理解される事がなく、結果的に袂を分かつ事になる。
 
■1927年〜赤坂霊友会
 角太郎は実兄の小谷安吉とその妻であった小谷喜美(霊媒役として育成)らを新たな同志として、1927年より赤坂に拠点を置いて(通称:赤坂霊友会)激しい修行に打ち込み、西田無学が創案した、無量義経と仏説観普賢菩薩行法経からの抜粋が中心であった経巻に、新たに「法華経」本経からの抜粋も加えて『青経巻』(あおきょうかん)と呼ばれる独自の経典を1928年に編纂・発行した。

 また、西田無学は個々の死者に法名を送る方法論を確立していたが、角太郎達はそれに加えて、父系・母系に繋がる全ての先祖を対象とした「総戒名」と呼ばれるいわば象徴的かつ集合的法名を創案した。また、人間だけでなく、個々の動物・植物に至るまでのまさに一切衆生の成仏を願った法名も創案した。

 そして、特定のシャーマンに依存するのではなく、充分な精神的鍛錬と慈悲を育む修行を経たものなら誰でもシャーマン的手法が使えるような独自の方法論を確立するに至る。

■1930年 霊友会の創立と発展
 1930年7月、会の名称を正式に「霊友会」とし、発足式を行った。そして、男爵・永山武敏を会長に、小谷喜美が名誉会長に、久保が理事長に就任した。角太郎は当時の混乱した世相の諸問題を解決するには、法華経に説かれた仏教的価値観と修行を民衆に広めて、多くの人が自分自身で菩薩行を実行する事が必要であると考えた。

 そして、人々が僧侶の儀式に頼るばかりでなく、自ら積極的に法華経の修行と教えを自分達の生活に活かして行くよう努力することによって、今こそ法華経に説かれた普遍的な菩薩行の理想を日本で実現し、いずれは世界中で実現できる時が到来することを確信した。しかし、角太郎は、すでにその頃から、近未来に東京に火の雨が降る事を予見し、世の混乱を鎮め最悪の事態を回避すべく、東奔西走した。
 その後、霊友会は急速に発展したが、1944年11月18日に、その遺志を小谷喜美と久保継成に託して、志半ばにして他界した。

3.歴史
■1920年〜
 創立者の久保角太郎は西田無学の思想と行法を知り、それをきっかけとして本格的な法華経研究と在家による実践方法の模索に入る。
■1924年〜
 若月チセらと「第一次霊友会(南千住霊友会)」を結成するが、若月らに菩薩行としての趣旨が理解されず、その後袂を分かつ。
■1927年〜
 実兄の小谷安吉・小谷喜美らとともに赤坂霊友会として活動を開始。
■1930年〜
 小谷喜美を会長とし、久保角太郎が理事長として「霊友会」として発会式を行う。「在家による法華経の菩薩行を実践する団体」として発展。
■1944年〜
 久保角太郎他界。その後、小谷喜美を中心に戦後大きく教勢を伸ばしていくが、方針の違いや様々な中傷報道が原因となって多くの分派を生むに至る。
■1971年〜
 小谷喜美死去後、久保角太郎の子息である久保継成が会長に就任。「インナートリップ」を提唱し若者をターゲットとした布教方針を掲げた。
■1993年〜
 久保継成は集団合議制を確立する為に会長職を辞任、理事長に就任。
■1996年〜
 濱口八重が後継会長に就任。濱口八重会長死後は大形市太郎が会長職を継承。久保継成は別グループを形成して活動。
■2003年〜
 第7支部の松本廣を中心に独自に別グループを形成。団体名称「Inner Trip REIYUKAI International」という国際団体として独立。日本国内において団体名称をITRI日本センターとし、所在地を東京都港区虎ノ門5-6-11に置く。
■2004年〜
 久保継成は久保を支持する会員と共に霊友会から完全に独立、本部を東京都港区元赤坂に置き、在家仏教こころの会を結成。

【分裂・分派】
 創立者である久保角太郎によって発想された在家の菩薩行としての霊友会の修行体系の上記のような趣旨が必ずしも正確に会員に徹底されていたとは言えない面もあるようである。

 その要因の一つは霊友会が個人一人一人の自らの体験を重んじ、理屈だけで分かった積りになる事を避ける為に、敢えて教条化された「教義」というものを提示せず、「人を見て法を説く」というポリシーを貫いたことにあると思われる。ただ、そのようなポリシー自体は、釈尊の基本姿勢に忠実に従ったものであり、本来、画期的であるとさえ言えるものである。しかし、その画期的なポリシー故に、人から人に伝わるうちに、様々な独自な解釈が入り込む余地を残してしまったことも否定できない。

 霊友会から、分派した団体は主なものだけでも十数団体を数え、その総会員数は優に創価学会を越えるとも言われるが、それぞれの団体の解釈には大きな幅があるようである。
 当の霊友会本体においても、本来、「先祖供養」は菩薩行の一環としての手立てであったはずだが、いつの間にかそれ自体が目的化して、霊友会の教えは「先祖供養」であるというようなとらえ方が目立つようになり、菩薩行の実践という本来の目的が見失われるケースが少なからず見られたようである。

 久保継成は結局、会内部での改革をあきらめ、改革の趣旨に賛同した会員達とともに、在家仏教こころの会という別団体を設立する事になる。
 
4.経典
 『青経巻』(あおきょうかん) 『法華三部経』 

5.教義・崇拝対象
 霊友会の目的は在家による法華経の菩薩行の実践とその普及にある。霊友会の修行では自分に繋がる父系・母系双系のすべての先祖との関係性と、日常生活において触れ合うすべての他者との関係性の中に、これまでの自分のあり方が反映されている事を認識し、それらについて内省して自身のあり方の問題点に気付き、その気付きを基に日常の行動パターンを変革していく事が重視される。

 具体的には自分に繋がる父系・母系双系のすべての先祖を象徴した「総戒名」と呼ばれる、一種の時間軸における関係性の象徴を前にして、日々、「青経巻」と呼ばれる、法華三部経からの抜粋を中心に編纂された経巻を読誦する。これを霊友会では「先祖供養」と呼んでいるが、これは、旧来の男系中心の家制度に基づく儒教的な影響を受けた日本の伝統的祖先崇拝とは発想を異にするもので、上述したとおり、自分という存在を縁起観で捉え直す純仏教的な修行の一環として位置づけられるものである。

 このように、霊友会の修行は自らの悟りと他者の悟りを同時に希求するという法華経が唱導した「菩薩行」を実現するものであり、先祖の供養も含めてすべての活動が菩薩行の一環であるとされている。

6.活動・機関誌
 
7.行事
 

8.施設・関連団体

9.著名人
■石原慎太郎
 霊友会信者であり、政界進出にあたり支持をとりつけて大量の組織票を獲得した。霊友会の機関誌「あした21」に寄稿するほか、イベントにも参加している。

■花田勝治
 元横綱。長男を不慮の事故で亡くした後に入信している。他の花田一族も信徒である。

■松ヶ根親方夫妻
 部屋を興した後に入信。

10.その他 


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