池田 大作





 池田 大作(いけだ だいさく、1928年1月2日 〜)は、日本の宗教家、作家。宗教法人・創価学会の名誉会長、SGI(創価学会インタナショナル)会長。 山本 伸一(やまもと しんいち)、法悟空のペンネームで作家活動もしている。

(来歴)
■入信以前
1928年1月2日 東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北)に海苔業者の父、子之吉(ねのきち)と母、一(いち)の間の第6子(5男)として生まれる。
1940年3月 尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職。
8月 肋膜炎を患い茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える。
9月 新橋にある「昭文堂印刷」で文選工をする傍ら、私立の「東洋商業高校」(現、東洋高等学校)に編入。
1946年 東京都大田区森ヶ崎にある「協友会」に加入。
高校卒業と同時に「昭文堂印刷」を退社。半年後、京急蒲田駅裏にある中小企業の組合「蒲田工業会」(現:「蒲田工業協同組合」)に勤務。

■入信以降
1947年3月、東洋商業学校を卒業。
8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席。戸田城聖の御書講義を受け、小平芳平の折伏を受け、入信を決意、8月24日、創価学会に入信手続きを行なう。入信したことで、家からは勘当状態になる。
1948年「大世学院」(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。
1949年1月3日 「日本正学館」に入社。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。
5月 「日本正学館」編集長に就任。「大世学院」を中退。
10月 「東京建設信用組合」に入社。

1950年10月 「大蔵商事」(現:「日章」)に移動。
1951年5月3日 戸田が創価学会の第2代会長に就任。
5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。
7月 青年部(男子部)が結成され、第1部隊長になる。
1952年2月9日 創価学会青年部の教育参謀に。
3月 参謀室長となる。
5月3日 白木香峯子と結婚。

1953年11月25日 長男博正の誕生を期に、正式に「太作(たいさく)」から「大作(だいさく)」に改名。
1954年3月30日 青年部参謀室長に任命される。同日 設置された「情報部」の最高顧問ともなる。この頃、「大蔵商事」の仕事を離れる。
12月3日 新設された「渉外部長」を兼任。
1955年3月11日 北海道小樽市の小樽公会堂における日蓮宗と創価学会との法論において司会を務める。

1957年7月4日 参院大阪選挙区の補欠選挙が行われた際、創価学会員に戸別訪問や日雇い労働者達に候補者名の氏名の入ったタバコを渡すようを指示したとして公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕され、大阪東警察署と大阪拘置所に勾留。
7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴される。
後に検察官より禁固10か月の求刑を受ける。

1958年4月2日 戸田が死去(58歳没)。
4月20日 戸田の「学会葬」で司会を務める。
6月 自ら新設した総務を青年部参謀室長と兼任。
1959年6月2日 第5回参議院議員通常選挙において選挙参謀を務める。
6月30日 青年部参謀室長を辞任し参謀室の北条浩、龍年光と共に創価学会理事に就任。

■会長就任以降
1960年3月30日 戸田の三回忌法要を前に、会長への就任を正式に要請され、4月14日、正式に会長就任を受諾。
5月3日 創価学会第3代会長に就任。戸田の七回忌までに300万世帯の信徒獲得と邪教撲滅を目標に掲げる。
6月、池田会長就任に反対し理事の石田次男を会長に推す幹部が、学会内に別組織『顕徳会』を立ち上げた。顕徳会の意志に男子部幹部約200名などが賛同し気勢をあげたが、わずか1年で解散となる。
10月 北・南米を訪問。

1961年11月27日 公明党の前身「公明政治連盟」が発足
1962年1月25日 「大阪事件」で無罪判決が言い渡される。
1963年10月30日 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと会見。

1964年5月3日 第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。
宗門から法華講総講頭に任命される。
11月17日 「公明党」を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。

1965年1月1日 『聖教新聞』紙上で小説『人間革命』の連載を始める。
1968年9月8日 第十一回創価学会学生部総会における講演で、中華人民共和国の正式承認と日中国交正常化、中国の国連加盟などを提言。

1970年創価学会と公明党に対する批判本に対して、創価学会員、公明党議員らが出版・流通を妨害したとされる「言論出版妨害事件」に関し、野党議員が池田の証人喚問を要請。
5月3日 創価学会第33回本部総会において、「言論妨害という意図はまったくなかったが、結果として、妨害と受けとられ、関係者に圧力を感じさせ、世間にもご迷惑をかけてしまったことは、まことに申し訳ないと残念に思っております」と謝罪、公明党と創価学会の分離を約束。

1971年4月1日 創価大学を創立。
1972年イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーと対談。

1974年
4月1日 アメリカ・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のディクソン講堂で講演。
5月29日 香峯子や幹部らと共に中国を初訪問。
9月 ソ連を訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会見。
10月29日 創価学会の代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任。
11月 『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)を出版
12月29日 松本清張の仲介により、日本共産党の宮本顕治委員長と松本の自宅で会談。創価学会と日本共産党とが互いの存在を認め、相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協定」を結ぶ(発表は約7ヶ月後の翌1975年7月)。
創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発表。1990年までに広宣流布の総仕上げを目標に掲げた。

1975年
1月1日 創価学会本部において本尊の開眼入仏法要を行う。
1月 創価学会の世界的組織、SGI(創価学会インタナショナル)の会長に就任。
1月9日 イェール大学客員教授加藤周一とニューヨークで会談。
創価学会の青年部が中心になって集めた核廃絶・原水爆禁止の1千万人の署名をニューヨークの国連本部で事務総長に手渡す。

1976年
池田と創価学会員との不倫関係を報じた月刊誌『月刊ペン』に対し、名誉毀損に当たるとして創価学会及び相手とされた創価学会員らと共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大蔵を刑事告訴。
8月 宮本委員長から「創共協定」を遵守するようにと、会見を申し込まれるが、拒否。公明党からの異論が大きくなり(この件に関して後年、当時創価学会の顧問弁護士であった山崎正友の暗躍が取り沙汰されている)、「創共協定」は死文化する。

1977年
1月15日 第9回教学部大会で「仏教史観を語る」と題する講演を行う。寺院否定論など、独自の教義を打ち出し、創価学会独自の経本を作る。(「昭和52年路線」)これに反発した日蓮正宗内の若手僧侶が創価学会の教義逸脱を正すという活動を始める。

1978年
6月30日 「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』紙上で表明。
9月3日 『聖教新聞』が本尊模刻の事実を認める記事を掲載。創価学会側は本尊の謹刻について事態の収拾のために他の7体の本尊は総本山へ納められることとなった。
11月7日 本尊謹刻などについての院達を不服とする一部宗内を治めるため、創価学会創立48周年記念登山代表幹部会として、2千人の創価学会幹部、全国の教師と共に大石寺に登山を行い、本尊模刻を初めとする教義逸脱を謝罪(おわび登山)。

■名誉会長就任以降
1979年
4月24日 日蓮正宗との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。終身制だった会長職を5年の任期と変更、後任の会長には北条浩が就任。
4月26日 法華講総講頭を引責辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総講頭の辞令をもらう。
5月3日 日蓮正宗の法主、日達が池田名誉会長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の収束を宣言。

1982年10月15日 東京地裁における『月刊ペン』に関する差し戻し裁判(第27回公判)に検察側の証人として出廷。

1983年
1月25日 「SGIの日」記念提言を発表(これ以後、毎年発表)。
6月 ルーマニアを訪問、当時の大統領だったニコラエ・チャウシェスクと会談。「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」との賛辞を贈る。しかしこの6年後ニコラエ・チャウシェスクは長期にわたり独裁政治を行ったとしてルーマニアの人民裁判で死刑判決が下り死刑が執行された。
8月8日 「世界保健機関」を初め、国連機関への貢献が評価され「国連平和賞」を受賞。なお、国連平和賞は国連の名称が付いているが、国連の公用語には国連平和賞の名称がない。また国際連合(United Nations)は同賞を制定、発行していない。

1984年1月2日 日達の後を継ぎ、67世の法主となった 日顕により再び「法華講総講頭」に再任される。

■日蓮正宗との決裂、日蓮正宗からの破門宣告以降
1990年
10月31日 アフリカ民族会議(ANC)副議長だったN.マンデラと会談。
11月16日 第35回本部幹部会において、宗門および日顕を批判。
12月13日 日蓮正宗より創価学会に対して池田のスピーチの真意を問いただしたが「出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができない」と創価学会は拒否。
12月27日 日蓮正宗は法華講総講頭に任期制を導入。これにより任期終了と共に池田が法華講総講頭の資格を自動的に失う。

1991年
TBSの取材に対し日蓮正宗との対立については、「より高い次元に行くための現象」と説明、日蓮正宗からの独立をきっぱりと否定。
11月28日 創価学会とSGIが日蓮正宗から破門される。

1992年8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮正宗から信徒除名処分。

1993年
日寛の本尊を創価学会が会員に配布。
8月8日 第69回創価学会本部幹部会において、細川連立政権の内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得したと語ったことが、国会で問題となる。当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨を説明。
9月24日 アメリカのハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演。
12月18日 オウム真理教が池田殺害を計画。創価大学キャンパス内でサリンを噴霧。池田は被災を免れるが、牙城会員数人が被災。新実もサリンを吸い込み一時重体に陥る。

1995年
4月 『中央公論』1995年4月号において、田原総一朗と対談。14年ぶりに国内ジャーナリストのインタビューを受ける。
11月28日 宗教法人法改正の問題で、池田を参考人招致しようとする自民党に対し、公明党系の新進党国会議員やその秘書ら約300人が、佐々木満委員長を委員長室に閉じ込め、 ピケを張り、座り込みをして審議再開を妨害。最終的に創価学会の法律上では責任者ではない池田の招致は見送られ、法律上の代表者となっている秋谷栄之助会長を招致することで決着。

1996年
2月11日 「戸田記念国際平和研究所」を設立。
6月、女性信者が過去数回にわたり池田から強姦を受けたという架空の訴えを起こされる。

1997年12月1日 日蓮正宗の一部改正に伴い、創価学会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。
1998年11月27日 東京・元赤坂の迎賓館で中華人民共和国主席江沢民と会談。

1999年
6月4日 フィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領と会談。
12月6日、創価学会の機関紙、創価新報に掲載された記事および写真に対する宗門との民事裁判で、東京地方裁判所は宗門の訴えを全面的に認め、被告の池田大作、および創価学会に対し原告1人当たり200万円の支払いと、機関紙における謝罪記事の掲載の命じる判決が下った。

2002年池田は会則を変更し、初代会長牧口常三郎、第2代戸田、第3代池田の「三代会長」を、「永遠の指導者」とする規定を入れる。

2003年
3月22日 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフと会談。
4月末〜6月にかけて、池田が重病で入院したという情報がマスメディアを駆け巡る。脳梗塞や心臓病だとの憶測が飛んだが、創価学会広報室は「風邪と疲労で体調を崩した」とのコメントを出す。以後、複数回にわたり重病説や死亡説がマスメディアを駆け巡る事がおおくなった。

2004年
12月 アメリカの世界的経済誌『フォーブス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関する記事を特集し掲載。

2006年
9月22日 首相就任直前の安倍晋三の希望で、極秘裏に東京都内の創価学会の施設で、会談を持ったと主要新聞(『産経新聞』を除く)を初め各種メディアが伝えた。
9月28日 小泉純一郎総理と会談。
11月30日 国際原子力機関(IAEA)のM.エルバラダイ事務局長と会談。

2007年
4月12日 来日中の中華人民共和国首相温家宝と会談。日中友好を訴えた首相の国会演説を「不滅の名演説だった」と讃える。

2008年5月8日 中華人民共和国主席胡錦涛と会談。

2010年
5月の本部幹部会以降、体調不良から創価学会内の公式行事を全て欠席、現在へ至る。そのため重病説が一部マスメディアで取り上げられた。

(人物)
■執筆
 随筆、小説、対談集などの他、仏法哲学の解説書、子ども向けの童話なども執筆している。また、写真家・詩人としても活動している。
2007年3月7日にリリースされたアグネス・チャンの新曲『そこには 幸せが もう生まれているから』の作詞を手がけた(山本伸一名義、作曲はアグネス・チャン)。

■顕彰
 国家勲章、大学からの名誉学位、国連や学術機関からの表彰など、多くの顕彰を受けており、授賞のたびに、創価学会の機関紙『聖教新聞』の一面を飾る事が多い。
 海外では、モスクワ大学、グラスゴー大学、ボローニャ大学、フランス学士院、ナイロビ大学等より「名誉博士号」「名誉教授称号」を授与されている。今では、池田が高齢のため学長や一行がかけつけ、特例として日本で現地の形式に則った、授賞式が行われるようになった。
 日本では学校教育法106条名誉教授号の規定により今後、日本国内の大学で勤務経験のない池田が名誉教授の称号を受ける可能性は極めて低い。池田は今まで、自身が創設した創価大学からは1974年に名誉教授を、1983年11月に名誉博士を授与されている。
 地方自治体からは、静岡県の富士宮市の名誉市民となっている他、第2代会長、戸田城聖の故郷の北海道の厚田村(現「石狩市」)から「栄誉村民章」(1977年)を授与されている。2009年には大阪府高槻市から「国際文化交流貢献賞」が送られた。

■批判・反論
 池田が多くの顕彰を受けている行為についての、批判や反論として批判者側からは池田大作の表彰や顕彰は韓国、中国、ロシア、ブラジルから授与されることが多く、中には活動実態のない団体からの表彰も含まれており「池田大作への表彰や顕彰は何かの見返りではないか」という批判もある。
 韓国ではSBSが2006年「池田大作とは何者か」という検証番組を制作、池田へ名誉博士号を授与した忠清大学のチョン・ジョンテク学長は番組の取材で、チョン・ジョンテク学長が創価大学から名誉博士号を授与されていること。韓国経済がどん底にあった1998年に創価学会から忠清大学に5億5000万ウオン(日本円で約5500万円)の援助を行ったことを証言、また名誉博士号を授与した済州大学では創価学会から5000万ウオン相当のコンピューターを寄贈され、機関紙聖教新聞でも寄贈した内容を報じたことを明らかにした。番組は海外の大学等から贈られる名誉教授の称号や学位が、実は、多額のお金(寄付)や勲章の贈与などによる見返りであるとした。
 中華人民共和国は、国民の信教の自由を事実上認めず、チベット仏教やキリスト教を厳しく弾圧しているが、その中国の学術機関から、創価学会という仏教系の新興宗教の有力者である池田が、100以上の学術称号を受けている(2010年現在)ことに関しても批判は多い。
 ジャーナリストの藤倉善郎が主筆を務めるWeb宗教専門紙の「やや日刊カルト新聞」はこれを批判して皮肉った形で「敵地」に強い池田に、自紙が創設した学術称号「ドクター・アウェー」を授与している。

(政見)
■公明党に関して

 1976年11月16日に、「天下を取れることが少し私には見えて来た。天下を取らない党ならやる必要はない、私が控えているから心配するな」など公明党議員と記念撮影において述べたが公明党は国政選挙では大都市において候補者を擁立するだけであり全国に候補者を擁立したことは無い。

■安全保障
 「憲法改正の論議はいいが、憲法第9条だけは絶対に変えてはいけない。」との見解を持っている。日本は国連の常任理事国入りを望んでいるが、安全保障理事会の機軸である集団的自衛権という考えと、それを禁じる日本の憲法との間には矛盾があるので、「国際連合平和維持活動」(PKO)に参加するために、自衛隊とは別個の組織を作るというのが正しい道であろうと思う」との見解を示した(1991年・第16回「SGIの日」記念提言)。
 1991年の湾岸戦争の直前には、5人の識者と共に、「戦争回避のための『緊急アピール』」をイラクのフセイン大統領宛に送った。しかし、2003年「イラク戦争」の開戦が迫っていた1月26日『聖教新聞』紙上で「軍事力を全否定するということは(中略)政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」、「武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。そうした毅然たる姿勢がテロへの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはない」と武力行使を容認する見解を示した。

■選挙
 1999年 SGI(創価学会インタナショナル)の日(1月25日)付の『聖教新聞』で首相公選制を提言。多様化した日本社会には、幅広い選択できるという理由で、中選挙区制が一番合っているとしている。早くから「日本における外国人参政権」を認めるべきだと主張してきており、創価学会を支持母体とする公明党も積極的に推進している。

■歴史観
 豊臣秀吉の朝鮮出兵を、朝鮮から仏教を初め、様々な文化的恩恵を受けたことを踏みにじる侵略だとして強く非難している。戸田会長は原水爆禁止を宣言したが『大東亜戦争の際、池田は日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、二度の原子爆弾の 投下をされております。一発は九州、一発は広島。日本の国が正法を誹謗した報いである』と発言、戸田との違いが表れている。

■池田本仏論
 池田が創価学会会長となった1960年以降、福島源次郎など一部の過激な幹部が池田会長を仏であるかのように喧伝。宗門との軋轢を招いた。日達は1974年4月25日の法華講登山において、「最近ある所では、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません」と池田本仏論を批判した。
 『聖教新聞』の紙上で、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している。
 1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。

(疑惑)
 週刊誌において出所が定かではない(不明である)内容が掲載されることがあり、池田に対する疑惑も多い。過去には裁判所が掲載した記事についてマスメディア、創価学会双方を断罪した例がある。

■個人資産疑惑
 「行政調査新聞」によれば、池田大作は1兆円の資産を「個人資産」としてスイス銀行に預けていたが2001年、スイス銀行が諸事情により「個人名義の預金」を一切扱わなくなってしまったためニューヨークの銀行に6000億円、ブラジルの銀行に4000億円と振り分けられたとされる。しかし「行政調査新聞」以外ではこの説は述べられていない。 それとは別に1977年5月には国会において池田の豪華専用施設等について調査し、質問する旨を知らせる手紙が届くなど個人資産に対する疑惑がある。

■外国籍疑惑
 池田は朝鮮人から日本人に帰化しているという説。当初はイオンド大学に籍をおく冨士谷紹憲が國民新聞に掲載したものであるが、この説がネット上に流布され、ジャーナリストのリチャード・コシミズが公演している。またそれとは別に韓国SGIや在日韓国人が池田大作は在日韓国人であり先祖は朝鮮半島から連れてこられたと主張している。前者は「嫌韓」(韓国を嫌う)の立場から行われ、後者は「被韓」(韓国のものにする)という意味でつかわれているため同じ外国人説でも内容は全くの正反対である。また当時韓国では、創価学会は日本の宗教として認知され「禁教」扱いされていた。そのため在日韓国人が創価学会を韓国でも布教できるようにするための主張であるとされる。
 ちなみに、これらの外国籍疑惑も池田大作の戸籍を直接確認したという話は全く無く、逆に池田の家系図が週刊誌に掲載されていることから外国籍説は否定されている。

■信者暴行疑惑
 1996年、北海道創価学会の幹部だった女性が、「過去数回にわたり創価学会名誉会長池田大作からレイプされた」との告発手記を『週刊新潮』に発表した後、女性とその夫が池田を相手取り損害賠償請求の訴えを起こした。内容は全くのデマであり、訴訟も金銭目当てであるとされた。判決も「訴権の濫用による却下」という前代未聞の判決が下る。

■池田大作暗殺計画
 池田は過去に暗殺計画をかけられたことがある。
藤原行正による暗殺計画
 1988年、弟弟子であった藤原行正が池田大作を暗殺し自分の息子を創価学会の会長に据える計画を立てる。実際に藤原は暴力団関係者と密会し暗殺は実行寸前にまで至ったが金銭トラブルから契約は頓挫し暗殺計画が発覚した。その後藤原は『池田大作の素顔』という暴露本を出版し池田に対抗した。
オウム真理教による暗殺計画
 1990年代に創価学会とオウム真理教との間で信者の奪い合い(改宗合戦)が横行し多数のオウム信者が創価学会に改宗した。そんな中1993年12月18日に池田が創価大学での演奏会に出席するという情報を手に入れたオウム真理教はかねてより仏敵と称していた池田大作をサリンで殺害しようと暗殺計画を実行した。しかし会館の警備を担当していた創価学会員に怪しまれ計画はとん挫、池田に被害はなく創価学会員数名が負傷するだけに終わった。しかし池田の行動予定という情報が漏洩した事態を重く見た創価学会は以後情報管理を徹底するようになった。

(関係する人物や団体)
 安倍晋太郎 1958年、大石寺の大講堂完成記念の祝典に岸信介の代理で安倍晋太郎が出席して以来、何度も面会したという。「きれいな心で学会のこと、世界のことなど私と話し合うことを楽しみにして下さったようである」と池田は述べている。

■評価
 冬柴鐵三(公明党元幹事長、国土交通大臣):「人生で最も影響を受けた人物」「あらゆる面で影響を受けた」。
 遠藤乙彦(元外交官、公明党所属の国会議員):「人生に関するどんなことでも相談して、教えを受けられる先生」、「池田先生の思想・仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっと(世界の)問題が解決していくでしょう」。

■批判
 田中角栄(元首相、自民党幹事長経験者):秘書の早坂茂三によれば「池田大作はしなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない。公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」。
 ポーリー・トインビー(アーノルド・J・トインビーの孫娘):「池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。」。
 石原慎太郎:1999年東京都知事選挙を直前に控えた時期に、池田大作に対する人物評価を尋ねたアンケートに「一言で表現すれば、『悪しき天才、巨大な俗物』。」『週刊文春』 平成11年3月25日号。

■批判する立場になったまたは袂を分けた元幹部
藤原行正(元創価学会幹部)自著にて池田大作を批判、「香典泥棒」の噂は池田大作が元凶と著書で批判
龍年光(元創価学会幹部・元公明政治連盟書記長・元公明党東京都議会議員)
原島嵩(元創価学会教学部長)
山崎正友(元創価学会副理事長・元顧問弁護士)
竹入義勝(公明党元委員長)
矢野絢也(公明党元委員長)
福島源次郎(元創価学会副会長)
石田次男(元公明党参議院議員)
大橋敏雄(元公明党衆議院議員)
戸田幾(創価学会二代目会長戸田城聖夫人)
桑原春蔵(元公明党大田区区議、創価学会副会長)「池田が政治権力を握って天下を取るといった姿勢は、もはや信仰者ではない。信仰を利用した魔物」
後呂雅巳(元創価学会壮年部長)
山口隆司(元創価学会幹部)「池田大作の名誉欲達成のために、大変な資産と人生の半分を費やしたのが腹だたしい」
鈴木広子(元創価学会幹部)
細谷健範(元創価学会幹部)

(家族)
父 子之吉(ねのきち):生涯、真言宗の信仰を持ち続けた。
母 一(いち)
兄 4人の兄がおり、長兄はビルマ(現:ミャンマー)で戦死。
妻 香峯子(かねこ)
長男 池田博正
次男 (著書活動等を行っていない一般人のため氏名は伏せる)成蹊中学校・高等学校同級生に安倍晋三 1984年10月 29歳で急逝
三男 池田尊弘



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