デカルトの生涯


 アランは、デカルトが生きた時代を次のように書き記している。

「人はすばらしい時代にあった。時代はまだ服従を知らなかった。秩序は確立されていない。全ヨーロッパは、各人が己のためにのみ戦ういわば巨大な内戦の状態にあり、数学さえも奇襲隊の戦いに似て、最も器用な者は何か新奇な突きの一手を試みる。誰しも剣をとって事をくわだて、また主えらびをする。われわれの情念を変じて知恵とする、あの成文的な義務などというものを眼の前にもっている者は、当時一人としてないのである。自ら決断しなければならない。デカルトはこうした動乱に身を投じて、驚かない。」

 ルネ・デカルトは、1596年フランス中部のトゥーレーヌ州の貴族の家に生まれた。当時のヨーロッパは、ポルトガルによるインド航路の発見やスペインによるアメリカ大陸の発見によって世界的活動を開始していた。そして、スペイン・ポルトガルの活動は程なく力衰え、ついでオランダ・イギリス・フランスなどの新興勢力がヨーロッパ内ばかりかアジアとアメリカに及んでいる。デカルトは、近世のヨーロッパの秩序が形成されつつある激動期に現われたのであった。

 デカルトの父はブルターニュ高等法院の評定官で、この時分貴族の割合下層に司法官の役についている人々があり、これらの人々が当時の政治の新たな動きを支え、また新たな学問や文学を生んだ。母は、彼を産んで一年あまリ後にこの世を去った。父は再婚したため、幼い彼を青てあげたのは祖母と姉と乳母である。母親の早世と彼が生まれながら虚弱な体質であったことが、彼の人生に大きな意味をもつようになる。

 10才になると、ラフレーシという町のイエス会(ジェジュイット教団=この教団は、反宗教改革のためにイグナチウス・ロヨラによって設立されたものであり、日本に来て鹿児島や山口に布教したフランシスコ・ザビエルは、彼の片腕であった)の学校に入学する。ここで、ギリシア・ローマの古典哲学、およびアリストテレス哲学をキリスト教神学に統合したスコラ哲学を8年間学ぶ。

 イエス会の神学は、ルターやカルヴィンの新教神学に対して神の摂理に対する人間の自由を大幅に認める考えであり、キリスト教の禁欲的性格を弱くして、世俗の道徳に妥協す苓傾向をもっていた。デカルトはラフレーシ学院の課業を終え、さらにポアチエの大学で2年ばかり法律と医学とを学ぶ。

 しかし、伝統的学問のすべてを学び終えた20才の青年のロから出た言葉は「私は多くの疑いと誤りとに悩まされ、知識を得ようとつとめながら、、かえっていよいよ自分の無知をあらわにしたというほかには何の益も得られなかったように思われた」という落胆であった。そこで、彼は学問の大部分に見切りをつけて世間に出る。しかし、しばらくすると数学者と交わり、数学の研究に打ち込む。数学だけは、いろいろな学問のうち最も明白な真理を示すと考えられたのである。

 22才(1618年)には、フランスを出てオランダに行き、ナッサウ公マウリッツの軍隊に志願兵として入隊する。ナッサウ公の軍隊は当時精鋭の評判高く、また戦術上の必要から数学や力学の研究を奨励した。ある時、兵営に一つの数学の問題が掲示されており、デカルトは見事にそれを解き、彼の名は当地の研究者に知れ渡ったという。ここでイサク・べ一クマン(後にドルトレヒト大学学長になる人)に出会い、数ケ月間デカルトと共同研究をすることになる。べ一クマン宛のデカルトの手紙には「私がまじめな仕事から遠く離れてまよい出ていたとき、君が正道へひきもどしてくれた」と述懐しているという。

 オランダに行った年にドイツで30年戦争が起こる。デカルトは翌1619年オランダを離れ、ドイツに行って旧教軍の陣営に加わる。この年の10月、ドナウ河上流のウルムの町に着き、近くの村で冬ごもりの宿舎に入る。この時、両軍対峙のまま戦闘休止状態にあり、デカルトはここで一種の精神的転機を経験する。手記には「1919年11月10日私は霊感に満たされ、おどろくべき学問の基礎を見出した」とある。彼はそのことを聖母に感謝し、マリアにゆかりのある北イタリアの聖地ロレットヘの巡礼を誓ったと伝記に記されている。また、一種の霊知によって世界を改革しようとする神秘主義的団体(バラ十字会)にも興味を示したと伝えられている。

 ドイツの冬の宿で天職を自覚したデカルトは、あくる年早く軍籍を離れて旅に出、2年後の1622年はフランスに帰る。一度帰国したデカルトは、また南ヘアルプスを越えてイタリアに行く。1625年にパリに帰り、そこで3年間を研究に費やす。デカルトはドイツの宿舎での転機以来、9年間自らの哲学の基礎をはっきり定めることなしに過ごしたと言っている。というのは、ドイツで一生の方針を決めはしたが、23才の若さですぐ順序立てて仕事に取りかかるのは早過ぎるので、それ以後は旅をして多くの人々と交わり、そのための準備作業を続けていたのだった。ところが、人々はそれとも知らず、デカルトは既に自分の哲学をもっているという噂を流していた。

 しかし、デカルトは哲学を土台から考え直す仕事はどうせ一度はやらねばならぬと考えていたので、噂が立った以上は、その仕事に努力せねばならぬと感じた。そしてこの仕事は、知人の多いパリでは集中できないので、オランダに一人住むこととした。1628年にオランダに移住し、そこで21年間を過ごすことになる。

 このようにみてくると、デカルトという人物は生涯孤独を好み、一室にとじこもって哲学的思索にふける生活を送ったように考えられるが、その一方で彼は、判断力と行動力に富む極めて快活な人物であった。例えば、旅行中ある船上で船頭どもの悪事を見破り、剣を抜いて彼等を屈服させたとか、30に近い頃、幾人かの婦人の前で恋敵と渡り合い、相手の剣を打ち落したという勇ましい武人的エピソードも伝えられている。彼は思索の上でも行動の上でも、自分自身以外に他に何一つ拠り所をもたず、自己の確固とした意志によって人生を歩もうとしたのである。

 デカルトはオランダのあちこちで仕事をしたが、諸国の学者との文通の道はいつも開かれていた。それは、彼の年長の学校友達てあったフランシスコ派の修道僧マラン・メルセンヌが、デカルトの居所を知っていて、手紙の取次をしたのであった。
 デカルトはずっと独身だったが、オランダ生活の初めの頃1634年にオランダ人の女中を愛して、娘フランシーヌを生んだ。彼はこの子をフランスに送って教育上しようと計画したが、5才の時、猩紅熱で亡くす。デカルトは、我が生の最大の悲しみであると嘆いたという。

 デカルトがオランダでの20年間にやった仕事をみると、始め一年近くの間形而上学に打ち込んでいる。しかし、自然研究の新たなニュースに刺激されて、関心は自然学に移る。そして、いままでの研究の体系化として1633年「世界論」を書いたが、ガリレイの宗教裁判のことを聞き出版を断念する。ガリレイは、彼の著書「天文学対話」の中で、コペルニクスの地動説を支持したため有罪判決を受け、終身禁錮の憂きめにあっていた。そこで1637年、デカルトはコペルニクスの説には直接触れないように内容を一部変更し「方法序説および三試論」として出版する。

 当時のフランスでは、学間の書物はラテン語で書かれるのが普通であって、彼が哲学の本をフランス語で書いた最初の人であった。破は「フランス語で書くのは、生れつきの理性のみを用いる人々のほうが、昔の書物しか信じない人々よりも、私の意見をいっそう正しく判断してくれるだろうと思うからである」と断わっている。さらに4年後の1641年、形而上学をラテン語で詳しく論じた「第一哲学の省察」を出し、1644年には「哲学の原理」を出す。、デカルトの最後に出した本は、スウェーデンに移って死ぬ直前の1649年に出版された「情念論」であった。

 著述が公けにされると、自然に信奉者も生まれた。その内デカルトの庇護者でもあったのは、オレンジ公秘書コンスタンチン・ホイヘンスであった。その子が後の有名な科学者クリスチャン・ホイヘンスであって、デカルト自然学の見地を忠実に受け継いで、ニュートンに対抗することになる。さらにユトレヒト大学の哲学教授レネリは、新教に改宗してオランダに住み、早くからデカルトの友となった。そしてレネリの死後、弟子のルロア(レギウス)が同じ大学の医学教授としてデカルト自然学を教壇から説き、哲学の新星としてのデカルトの名は大いに宣伝された。

 すると、同じ大学の神学校教授で正統カルヴィン派の指導的神学者であったヴォエチウスが、デカルト哲学に反対することになる。彼は、ユトレヒト市当局を動かしてデカルトの追放を策し、事は裁判沙汰となり、大学でのデカルト哲学の論議を賛否を問わず一切禁止するという結果になった。さらにレイデン大学でも迫害が始まる。また「デカルト哲学の殉教者」とまで言われたルロアが、結局デカルトの考えから離脱する。彼は医学者であって、デカルトのような形而上学的問題を重要視せず、彼の思想は最終的には唯物論に至らざるを得なかったのである。
 
 けれども他方で、デカルトには親しい女弟子が出来ていた。それは、さきの30年戦争の初めにボヘミヤ王に擁立され、たちまち敗北したファルツ選帝侯フリードリッヒの長女エリザベトであった。エリザベトは学問に熱心で、7ケ国語を解し、数学を学び、まじめに宗教を求めて、デカルト死後は神秘主義に至り、ヘルフォルト修道院長として生を終える。王女は1643年デカルトのことを聞き、ハーグから文通を始め、学問のみならず自らの生き方についての助言をも求めている。彼女がデカルトに発した質問は、心身関係の問題についてであって、この両者間のやりとりが、デカルト最後の著「情念論」としてまとめられる。

 さて、カルヴィン派神学者の迫害により、デカルトにとってオランダは住みよい国ではなくなってゆき、フランスに帰ることを考えるようになる。1644年に一度帰国しており、さらに47年・48年ともう2回帰っている。第3回の帰国では、フランス宮廷がデカルトの多年の研究とフランスの名声を高めた功とにより、終身年金を与える約束であったが、彼がパリに帰ると問もなく内乱(フロンドの乱)が起こり、彼はところどころにバリケードのつくられたパリを後にしてオランダに帰らざるを得なかった。

 しかしやがて、北の国スウェーデンがデカルトを招くことになる。スウェーデン女王クリスチナは、父王が30年戦争で死亡した時、幼女ながら位につき、以来男まさりの気性をもって君臨していた。クリスチナは人文学にも深く傾倒し、ある時、新任のフランス大使がエピクテトスの語録の新版をみやげにして、大いに喜ばれたという話がある。女王は、1649年4月には海軍提督に軍艦でデカルトを迎えによこしたりして招請に努めたので、さすがの彼もついにストックホルム行きを決心する。

 9月にオランダを出発、10月にはストックホルムに着いた。女王は、デカルトがここで永住できるようにいろいろ取り計らったが、彼にとって当地の気候は想像以上に厳しく「この国では人の思想も水と同じく凍ってしまう」程のものだった。

 そしてあくる年の1月、女王は週2日の早朝5時に、デカルトの教えを受けることにする。冬の早朝の出仕は、これまで昼前に床を離れたことのない虚弱なデカルトには大変な苦痛であった。フランス大使シャニュは、心配して女王に時間を変えさせようとしたが、その内彼は肺炎にかかってしま.う。

 大使館に寄寓していたデカルトは、彼を看取るうち自分も同じ病にかかり、シャニュの方は一命をとりとめたのだが、彼は1650年2月11日にその生涯を閉じるのである。53才であった。デカルトの死後4年にして、クリスチナ女王は自分の意志で王位を捨て、新教から旧教に改宗している。


(参考文献)
アラン「デカルト」みすず書房
野田又夫「デカルト」岩波書店
竹田篤司「デカルトの青春」勁草書房


(1982)

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