調所広郷(ずしょ ひろさと) 借金踏み倒して財政再建……薩摩藩



 桜島を望む鹿児島の天保山公園に、調所広郷(ずしょ ひろさと)の銅像が立つ。下級武士出身ながら、「太平の信長」島津重豪(しまず しげひで)に起用され財政改革主任となり、薩摩藩が明治維新の原動力となる基盤を築いた功労者だ。高校日本史の教科書にも名前が載る。

 後に「名君」島津斉彬と対立したためか地元でも人気はなかったが、最近、評価が高まった。銅像も10年前に民間の有志が寄贈。NHK大河ドラマ「篤姫」でも魅力的に描かれた。

 原口泉・鹿児島大教授によると、重豪治世下で薩摩の借金は一時、500万両にのぼった。藩収入が年に20万両弱というから利息も払えない破綻状態だ。幕府の課した土木工事、重豪の学問好きやぜいたくな暮らしぶりが原因とされるが、最も大きかったのは数多い婚姻政策と原口さんは指摘する。大名家同士の結婚は大変な物入りだった。

 調所らの手腕で殖産興業を進めたが、それだけで借金が消えるわけがない。貸主の大阪商人らに「無利子で250年返済」という事実上の踏み倒しを承服させた。将軍家と特別な関係にある島津家の無理強いに貸主も泣き寝入りである。

 さらに「鎖国」体制下にあって大胆な密貿易で富を蓄積していった。琉球を抑えた薩摩は特に有利な立場にあった。もっとも、幕府も見て見ぬふりをしていたふしもある。結局、調所は藩政掌握をめざす斉彬との権力闘争に敗れ、密貿易の責任を一身に負う形で服毒自殺した。(及川智洋)

(2008-6-14 朝日新聞)



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