興南春夏連覇…沖縄が風を巻き起こした



 申子園に、新たな歴史が刻まれた。全国高校野球選手権大会で、興南が沖縄勢として初優勝を飾り、史上6校目の春夏連覇を果たした。
 参加4028校の頂点に立つまでの、はるかな道程を思う。深紅の大旗を手にした選手たちに、心からおめでとうと言いたい。
 積極的な打撃は決勝でも変わらなかった。4回に東海大相模から7点を奪った攻撃は圧巻だった。ウチナーンチュ(沖縄人)らしい伸びやかさと、はじけるような強さがあった。

 沖縄の人々は、米国統治下の時代から何かにつけて「本土に追いつけ」と自分たちを奮いたたせてきた。高校野球も、そんな意味でスポーツを超えた存在だ。時にみずからの入生を重ね合わせ、見守ってきた。
 興南の我喜屋優監督は1968年夏、同校が沖縄勢としてはじめて準決勝に進出した時の主将である。本土復帰の4年前。パスポートにあたる身分証明書を手に、甲子園に向かった。

 この時の快進撃は「興南旋風」と呼ばれ、沖縄が、日本中が熱狂する。
 「勝つたぴに復帰が近くなるように感じられます」。琉球政府の行政主席は、そんな電報を打ったという。
 夏の甲子園が復活した46年、沖縄では、第1回全島高校野球大会が開かれた。20万人余の犠牲を出した沖縄戦の傷跡が残る島に、硬球はなかった。米軍が持ち込んだソフトボールを流用し、塁間をちぢめて試合をした。

 58年、40回記念大会に特別枠で首里高が出場、沖縄勢がはじめて甲子園の土を踏む。平均身長163センチの小柄なチームは初戦で敗れたが、観衆からは大きな拍手が送られた。地元紙は「アルプススタンドで一日日本復帰」と、その様子を伝えた。
 72年の復帰後、沖縄の野球はだんだんと力をつける。一年中練習に打ち込める温暖な気候。地元選手が本土の大学などで学んだ野球を、指導者となって持ち帰る好循環。それらが沖縄の高校野球を底上げしていった。

 沖縄水産が90、91年の夏、2年連続で準優勝し、本土を追う時代から、追われる時代になる。99年の選抜大会で沖縄商学が県勢初優勝。本土からも練習試合におとずれる学校が増え、島のハンディは小さくなっていった。
 「沖縄の復興は、まず高校野球から」。沖縄高野連の生みの親で日本高野連の元会長、故・佐伯達夫氏はかってこう語ったことがある。その頂を、いま沖縄はきわめた。

 昨年来、沖縄は米海兵隊普天間飛行場の移設問題で揺れている。
 長い過酷な道のりを歩んできた沖縄の人々の心に、興南の偉業は何を刻むだろうか。「旋風」から42年。さらに大きな風が、猛暑の夏に巻き起こった。

(朝日新聞 2010-8-22)



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