日本プロテスタントの歴史



1.幕末
「改革派の宣教師」
 プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズと6月来日のチャニング・ウィリアムズであった。これを皮切りに1859年中には、「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン(10月17日)をはじめとし、アメリカのオランダ改革派教会から派遣された宣教師サミュエル・ブラウンとグイド・フルベッキ 、医療宣教師ダン・B・シモンズなどが続々と来日した。

 さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラなどが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループである。
 やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード)のダニエル・クロスビー・グリーンが来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリスが函館に着任した。
 
 近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。

「横浜バンド」
 1863年にヘボンの開いた横浜英学所(ヨコハマ・アカデミー)はジェームズ・バラの弟ジョンに引き継がれ、バラ学校と呼ばれていた(バラ学校は1880年に築地居留地に移転して築地大学校となる)。1872年、押川方義(東北学院創立者)らバラ学校の青年たちが信仰を告白し、洗礼を受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜に最初の教会「日本基督公会」(海岸教会)が開かれた。

 1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足。生徒の中には前出の押川方義のほか、青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助、植村正久らがいた。このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転して明治学院が誕生した。また,一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメアリー・キダーが、ヘボンの診療所で教育していた。ここから後のフェリス女学院が誕生する。
 
「熊本バンド」
 1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官リロイ・ランシング・ジェーンズは会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズがすすめたことで(新島襄が1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代総長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。

「札幌バンド」
 札幌農学校で教壇に立ったウィリアム・スミス・クラークとメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中には佐藤昌介、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。

 日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。

 1873年までに、ほとんどのプロテスタントの教派が来日し、1882年時点で日本に在留していた宣教師は138名であった。初期の宣教師は聖書信仰と保守的な神学を持ち、その宣教の情熱の背景にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバルがあった。循環するリバイバルがアメリカのキリスト教の特徴である。ブラウンら宣教師は大覚醒運動の影響を受けていた。アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられた。

「松江バンド」
 福音派(特にホーリネス運動)の源流の1つで「松江バンド」(1893年)も特筆に値する。1890年の聖公会牧師バークレー・バックストンの松江市での伝道が始まりであり、竹田俊造、三谷種吉、堀内文一らを輩出。1897年9月26日にバックストンの招きにより、パゼット・ウィルクスが来日し、日本伝道隊(1904年)や日本イエス・キリスト教団、関西聖書神学校などの設立に関わった。三谷種吉は日本最初の音楽伝道者であり、今も歌われる讃美歌「ただ信ぜよ」、「神は愛なり」を歌いながら、伝道した。

 1878年5月15〜17日に、第一回全国基督教信徒大親睦会が開催され、1880年に第二回が開かれていたが、1882年は耶蘇退治の迫害があった。1883年の5月8〜12日に開催された第三回全国基督教信徒大親睦会からリバイバルが起こり、全国的に広がった。5月14日の基督教大演説会には四千人を集めた。1884年の同志社のリバイバルは、3月17日の祈祷会で最高潮を迎え、200名の学生が信仰を告白して、洗礼を受けた。

 日本のプロテスタントは教育中心、上流階級と中流階級に対する伝道を行なってきたといわれる。日本の初期のプロテスタントの特に指導者は知識階級、佐幕派の士族階層が中心だった。
 
「正教会の動向」
 日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会のニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。

 函館・仙台の人士が初期の信徒を構成した為、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教に叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭・輔祭を叙聖する事が出来るようになり、日本正教会の神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。

 また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。

 しかし1891年の大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたようだが、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通す事になる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人の為だけではない正教会」である姿を両立させることとなった。

 日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える。こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。

 明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例の事であった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。
 
2.明治から大正時代
 明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ者が増えた。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張し、上流階級がキリスト教に殺到した時代である。しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。

 1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴する出来事が内村鑑三の不敬事件(1891年)であった。

 1889年の大日本帝国憲法発布式典の当日、2月11日に森有礼は暗殺された。1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした。

 この時期はキリスト教にとって困難な時期ではあったが、売買春の廃絶を目指した日本基督教婦人矯風会(1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院(1887年)、石井亮一の聖三一孤女学院(1891年、後の滝乃川学園)のような養護施設活動、山室軍平による救世軍運動(1895年)などキリスト教的社会福祉事業、社会運動、廃娼運動が起こっている。このことはキリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。

 また、この時期に自由主義神学、高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。1887年にはアメリカからユニテリアンの宣教師が来日し、三位一体、キリストの神性を否定した。

 熊本バンドの小崎弘道はリベラルな新神学を受け入れ、1889年に同志社大学で開催されたキリスト教青年会の夏期学校で、「聖書のインスピレーション」と題して講演をした。また、1891年に金森通倫もモーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めであると主張した。
 1888年末にプロテスタントは249教会、信徒15514人、宣教師451人、日本人教役者142人、神学校14校、神学生287名、年間の受洗者は約7000人を数えた。正教徒は1万7000人。
 1901年5月に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口が約6万人となった。

 1901年9月から、リベラル神学を巡って、植村・海老名論争が起こる。1902年に福音同盟会は総会を開き、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した。
 明治期に伝えられ、教派別に編纂されていた讃美歌集であるが、1903年に各教派の讃美歌が集められた共通『讃美歌』が作成された。
 1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えた。トルストイの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった。

 1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会した。1912年に救世軍病院が開設される。
 1909年10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が開催された。1910年エディンバラ宣教会議の決議により、東京女子大学が設立。

 1910年の朝鮮併合後に朝鮮総督府は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣。日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げた。

 明治の終わりから大正期にかけて、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働組合運動など活発に社会運動を行ったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった。

 1918年は中田重治、内村鑑三、木村清松が再臨運動を展開した。1919年11月、淀橋教会の祈祷会から、ホーリネス・リバイバルが起き、四重の福音を唱えるホーリネスは教勢を拡大していった。
 なお大正以降の正教会の動向については、日露戦争・ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なる為に独特の経緯を辿った部分が少なく無い。

 昭和初期以前、明治末から既に日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていた。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年にギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教とともに奉神礼を行った事を、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える。

3.昭和から平成へ
「軍国主義の時代」
 昭和期に入ると、国中が軍国主義に染まり、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになると神道以外の宗教団体への圧力が強まった。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになった。

 1931年に満州事変が勃発すると国家の主導権は完全に軍部の手に握られた。1933年から1934年にかけて奄美カトリック迫害が起こる。朝鮮の長老派が神社参拝を拒んでいたため、日本政府は1938年6月末、同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣し、朱基徹牧師ら朝鮮の長老派を説得させるが、朱基徹らは拒んだため、日本の手にかかって殉教することになる。

 1939年に成立した宗教団体法は戦争遂行に向けてすべての宗教団体を統制しようとするものであった。これを受けて開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の決議に基づいて、1941年にプロテスタント32教派が自発的に統合し、日本基督教団が結成された。カトリック教会においても元来ローマ教皇直属の修道会と日本の各教区をすべて統合する団体として「日本天主公教教団」(現在のカトリック中央協議会の前身)が設置された。

 日本基督教団とカトリック教会は政府に求められて戦争協力を表明し、戦後になってこのことを非難された時、教会と信徒を守るためには他に選択肢がなく、苦渋の決断であったと弁解した。

 朝鮮の教会は、約70名の牧師が投獄、拷問にあい50名が殉教し、二千名の信徒が投獄され、約200の教会が閉鎖された。キリスト教にとってもっとも困難な時代であった。日本のキリスト教界において多くが国家に妥協する一方、戦争反対を表明した一部の教会、再臨信仰を咎められたホーリネス系教団、神社参拝を拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧が加えられ、解散に追い込まれた。ホーリネス弾圧の中で命を落とした者に小山宗祐、菅野鋭、斉藤保太郎、辻敬蔵、小出朋治(獄中での死亡順)、竹入高、池田長十郎、佐野明治(出獄後死亡)などがいる。

 戦時下の中で、正教徒の外交官である杉原千畝は「命のビザ」を発行し、ナチスの虐殺からユダヤ人のいのちを助けた。イスラエルの回復を祈るホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。旧約の神の民のうち、ある人は日本から渡米し、また再建されたイスラエルに帰還していった。
 この時代に日本正教会は大主教ニコライの後継者であるロシア人府主教セルギイ・チホミーロフをその任から解き日本人を主教にするよう当局から圧力がかかり、府主教セルギイは引退を余儀なくされた。代わってニコライ小野帰一が主教に着任した。
 
「戦 後」
 1945年8月に戦争が終わると、進駐してきたGHQの指示によって国家神道が廃止(1945年)され、かつて「現人神」とされた天皇が人間宣言(1946年)を行った。日本国憲法(1946年)によって完全な信教の自由が認められると、海外のキリスト教諸団体は活発に宣教師を派遣し、戦争で荒んだ心の癒しを求める人々も教会に足を運ぶようになった。かねてから準備されていた口語訳聖書も出版(新約1954年、旧約1955年)された。

 二つの世界大戦を防げなかったこと、戦後も冷戦構造の中で精神的な指導力を発揮できないことへの反省から、1962年以降、カトリック教会で「アジョルナメント」(現代化)を目指した公会議(第2バチカン公会議)が行われた。この会議ではカトリック教会の冷静な現状認識と今後の方向性が確認された。

 その中でヨーロッパ中心的な思考にとらわれすぎていたカトリック教会の姿勢が正され、もっと世界規模の視野を持って教会のあり方を考える必要性が痛感された。公会議のこのような精神に沿って教会生活全体の見直しが行われたが、その一環として典礼の国語化がすすめられた。

 日本でもミサをはじめとする典礼の日本語式次第と典礼の中で用いられる日本語聖歌(典礼聖歌)が作成された。また公会議では他宗教、特にキリスト教他教派への敬意と対話という方針がはっきりと打ち出された(エキュメニズムと呼ばれるこの宗教間対話の動きはもともとプロテスタントの中から起こったもので1910年のエディンバラ会議を嚆矢とする)こうしたエキュメニズムの精神にそってプロテスタント諸教派とカトリック教会の聖書学者が結集して聖書の翻訳事業が行われることになった。ここに共同訳聖書(1978年)が完成し、さらに共同訳聖書における問題点を改善して出版されたのが新共同訳聖書(1987年)である。

 1956年2月にビリー・グラハムが来日し、日本における最初のビリー・グラハム伝道大会が開かれた。
 1959年は、プロテスタント宣教百周年記念行事が、エキュメニカル派と福音派で別々に開かれた。エキュメニカル派では日本キリスト教協議会、日本基督教団を中心として開催された。

 一方、福音派(聖書信仰派)はイムマヌエル綜合伝道団の蔦田二雄、ホーリネスの車田秋次、日本キリスト改革派教会のマキルエン、常葉隆興、岡田稔、聖書キリスト教会の尾山令仁らを指導者として、日本宣教百年記念聖書信仰運動を展開し、翌年、日本プロテスタント聖書信仰同盟の発足を見た。この働きが新改訳聖書(新約1965年、旧約1970年)の出版と日本福音同盟の成立(1968年)につながった。エキュメニカル派は世界教会協議会(WCC)と交わりを持ち、福音派は世界福音同盟、ローザンヌ運動と交わりを持っている。

 1970年の大阪万博では教皇を中心とするカトリック教会とエキュメニカル派のプロテスタントとの共同によるエキュメニカルなキリスト教館の出展があった。この頃から日本基督教団では、教会派と社会派が対立し、教団紛争と呼ばれる紛争状態に入った。
 1974年に日本で最初の日本伝道会議が開催され、英国のジョン・ストットが招かれた。70年代は福音派の協力関係が結ばれ、聖書信仰の教会が教勢を伸ばした時代であり、「はばたく日本の福音派」と呼ばれている。
 
 このように西方教会諸派が戦後に日本で教勢を回復する一方で、日本正教会は戦後を迎えてもなお安定する事は無かった。第二次世界大戦も他教派と同様に正教会にとり苦悩の原因であったが、それ以上の長期に亘る苦悩の原因としてソビエト連邦の存在があったためである。共産主義諸国で弾圧を受けており、経済的・人的援助はロシア正教会から行われなかったにも拘わらず、正教会は「アカ」のレッテルを貼られて各地で教勢を衰退させた。

 また、日本正教会内部も、ソビエト連邦による弾圧・監視下にあるモスクワ総主教庁の意思の真正性に対する疑問から、母教会たるロシア正教会との関係をどのような形にするのかについてロシア革命直後から戦後しばらくまで様々な立場に割れた状態が続いており、これも教勢衰退の原因となった。

 1970年になってモスクワ総主教庁とアメリカ正教会と日本正教会の合意が成立し、日本正教会はロシア正教会を母教会とする自治教会の祝福を得ることで、ようやく教会組織の安定を得た。2000年5月には史上初めてモスクワ総主教アレクシイ2世が日本を訪問した(逆に言えば日本正教会はロシア正教会の子教会であるにも拘わらず、モスクワ総主教が訪日した事が歴史上実に一度も無かったことを意味する)。

 来日時、アレクシイ2世は日本正教会の首座主教の着座式を執り行うとともに、天皇とも会見している。また、着座式にはアメリカ正教会からも首座主教の出席があった。混乱の時代を経ながらも、日本正教会は明治時代の日本語訳による奉神礼を守り続けて今日に至っている。
 
「現 在」
 1989年に昭和天皇が死亡した。次代の大嘗祭が宗教行事であると考えたカトリック教会とプロテスタント教会から反対の声があがった。日本キリスト教協議会(NCC)などは日の丸、君が代にも反対している。2001年に日本宣教と天皇(制)をめぐってプロテスタントの中で論争が起こった。

 2009年には日本プロテスタント宣教150周年を記念して、エキュメニカル派、福音派、聖霊派の三派の共同になる日本プロテスタント宣教150周年記念大会が開催された。
 2010年5月にエディンバラ宣教会議100周年を記念して世界宣教東京大会が開催。大川従道らが説教した。
 2001年時点での、キリスト教人口の大まかな内訳はカトリック教会50万人、プロテスタント諸教派総計50万人、日本ハリストス正教会1万人などである。日本におけるキリスト教徒の概数は人口の1%を超えていない。



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