曹洞宗

     道元

1.概略
 日本曹洞宗(そうとうしゅう)は、鎌倉時代、道元(どうげん)によって開宗されました。曹洞宗は、中国の禅宗五家(臨済、?仰、曹洞、雲門、法眼)の一つですが、道元を通して中国から伝えられました。
※日本の禅宗:日本達磨宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗・普化宗

2.教祖・重要人物
「道元」(1200〜1253)
 道元は正治2年(1200)、京都で生まれました。父は内大臣の久我通親(くがみちちか)、母は摂政・藤原基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)という名門の家庭でしたが、3才の時に父を失い、8才の時に母と死別するという悲運にあい、13才の時に比叡山に入って出家しました。
 翌年、天台座主・公円(こうえん)に師事して得度し、仏法房道元の法名を与えられました。その後、道元は仏法について大きな疑問を抱き、比叡山を下りて三井寺(みいでら)で学び、さらに建仁寺で臨済宗の禅の修行に励みました。

 貞応2年(1223)年、24才の時に中国へ渡り、諸山を遍歴して修行を重ねました。やがて天童山(てんどうざん)に着任した新住職・如浄(にょじょう)禅師と出会い、真実の師に巡り会ったことを悟り、如浄の法統を継いで、28才で帰国しました。

 帰国した道元は、宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建てて、曹洞禅を伝えると共に、「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)などを説きました。しかし、伝統仏教からの圧迫もあって、寛元元年(1243)、越前に移り住み、大仏寺(現大本山・永平寺、えいへいじ)を建立して弟子を育成し、終生この地を拠点にして禅の修行を続けました。
 建長5年(1253)、京都で療養中、54才で不帰の人となりました。(より詳しく)
 
3.教典
 「修証義」(しゅうしょうぎ) 明治時代に『正法眼蔵』から文言を抽出して信者用に再編
 「般若心経」
 「観音経・如来寿量品」(法華経)
 (道元の著作)
 「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)
 「典座教訓」(てんぞきょうくん)

4.本尊
 釈迦牟尼仏
 (唱名)南無釈迦牟尼仏

5.教義
「正伝の仏法」 「即心是仏」(そくしんぜぶつ)
 「正伝の仏法」(釈迦に直結する教え)を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎ、「即心是仏」(心そのものは仏である)の心をもって、主に坐禅により働きかけます。
 
「修証一如」 「只管打坐」(しかんたざ)
 曹洞宗の坐禅は、中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐」(ひたすら坐禅すること)に努めます。「黙照禅」と呼ばれます。(臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派もありますが少数です)

 また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。

6.歴史
 曹洞宗二大本山の一つ総持寺(そうじじ)の開山・第四祖瑩山(けいざん)禅師が宗の発展の基礎を築きました。
 
7.宗派

8.主要寺院
大本山僧堂
 永平寺 - 福井県永平寺町
 總持寺 - 神奈川県横浜市

専門僧堂
 定光寺 - 北海道釧路市
 中央寺 - 北海道札幌市
 正法寺 - 岩手県奥州市
 善宝寺 - 山形県鶴岡市
 好国寺 - 福島県福島市
 大栄寺 - 新潟県新潟市(旧横越町)
 永平寺別院長谷寺 - 東京都港区
 西有寺 - 神奈川県横浜市
 最乗寺 - 神奈川県南足柄市
 可睡齋 - 静岡県袋井市
 豊川閣妙厳寺 - 愛知県豊川市
 大乗寺 - 石川県金沢市
 日泰寺 - 愛知県名古屋市
 総持寺祖院 - 石川県門前町
 宝慶寺 - 福井県大野市
 発心寺 - 福井県小浜市
 智源寺 - 京都府宮津市
 興聖寺 - 京都府宇治市
 瑞應寺 - 愛媛県新居浜市
 明光寺 - 福岡県福岡市
 安国寺 - 福岡県福岡市
 晧台寺 - 長崎県長崎市
  
9.その他
「セクショナリズムを否定」
 道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定したが、興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同することによって禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山とその後席峨山韶碩の頃からである。

「地方豪族や一般民衆に普及」
 臨済宗が時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられたのに対し、曹洞宗は地方豪族や一般民衆に広まった。


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